「Q. 仮に日本銀行が実際とは異なる金融政策を採っていたとしたらデフレは避け得ただろうか?」


Japan's DeflationIGM Economic Experts Panel, January 29, 2013)

「1997年以降日本ではデフレーションがしぶとく続いているが、仮に日本銀行が実際とは異なる金融政策を採っていたとしたらデフレは避け得ただろう」。この主張に同意しますか?


*「強く同意(Strongly Agree)」(21%/43%(confidenceの度合い*1でウェイト付けした場合))
<Judith Chevalier、Darrell Duffie、Barry Eichengreen、Bengt Holmström、Anil Kashyap、Pete Klenow、Maurice Obstfeld、Nancy Stokey>

Darrell Duffie 「まったくその通り(Strongly Agree)。仮に十分過激な金融政策が実施されていたとしたらインフレが生じ得ただろう。 ポイントはインフレが生じたとしてそれが大きな助けとなったかどうかだ。たぶんそう(助けとなった)だろう。」

Anil Kashyap 「まったくその通り(Strongly Agree)。ゼロ下限制約に直面したとしてもデフレに陥る必然性がないことはFedの行動が証明している。日本銀行はデフレを止め得ただろうし、説明責任を負うべきである。背景情報としてこちらを参照。」

Pete Klenow 「まったくその通り(Strongly Agree)。異なる金融政策というのが十分に非伝統的で確固としたコミットメントを伴う金融政策という意味であればその通りだ。背景情報としてこちらを参照。」

Nancy Stokey 「まったくその通り(Strongly Agree)。量的緩和QE)はおそらくデフレを防いだことだろう。」


*「同意(Agree)」(32%/36%(同上))
<Daron Acemoglu、Joseph Altonji、Alan Auerbach、Marianne Bertrand、Aaron Edlin、Austan Goolsbee、Kenneth Judd、Jonathan Levin、Eric Maskin、William Nordhaus、Emmanuel Saez、Richard Schmalensee>

William Nordhaus 「その通り(Agree)。金利の引き下げ/満期が長めの資産の購入/高めのインフレ目標の導入によって生産は刺激され、物価は上昇し得ただろう。」

Richard Schmalensee 「その通り(Agree)。(さらなる金融緩和に向けた動きというのは;訳者挿入)方向性としては正しいに違いないが、最近のアメリカの経験に照らすとその効果に不確実性も残る。」


*「不同意(disagree)」(3%/5%(同上))
<Robert Hall>

Robert Hall 「その意見には反対(Disagree)。ゼロ下限制約下では、準備預金と政府債券が代替的となるために、中央銀行は物価のコントロールを失うことになるからだ。」


*「何とも言えない(Uncertain)」(16%/16%(同上))
<Janet Currie、David Cutler、Ray Fair、Pinelopi Goldberg、Michael Greenstone、Hyun Song Shin>

Pinelopi Goldberg 「何とも言えない(Uncertain)。日本銀行の役割に関しては専門家の間で意見が分かれている。」


*「これといって特に意見なし(No Opinion)」(18%)
<David Autor、Katherine Baicker、Raj Chetty、Angus Deaton、Claudia Goldin、Richard Thaler、Christopher Udry>


*「未回答(Did Not Answer)」(10%)
<Alberto Alesina、Caroline Hoxby、José Scheinkman、Luigi Zingales>

*1:注;confidenceというのは自らの意見に関する自信の程度。1〜10までの10段階で表され、10が最高。例えば「confidence10で強く同意」という場合は「強く同意」という意見に揺るぎない自信を持っている、ということを意味する。

「『あの世』の経済学」

●Scott Gordon, “The Economics of the Afterlife”(Journal of Political Economy, Vol.88, No.1, February 1980, pp.213-214;こちらで全文閲覧可能)

ここのところ、経済学の分析ツールを(通常では経済学の守備範囲だとは思われていない)新たな分野にまで拡張・応用しようとする動きが活発だが、私の知る限りでは、神学(theology)の形而上学的な側面に経済学を応用した例はないようだ。この研究ノートでは、形而上学的神学における基本問題の一つを検討する。すなわち、あの世(死後の世界)の性質、あるいはもっとテクニカルな表現を使うと、天国の存在論(ontology of Heaven)の検討を通じて、経済学を神学の形而上学的な側面に応用することは可能だということを示す。

議論をはじめるにあたり、一つの前提を置くことにしよう。それは、天国には稀少性は存在しない、という前提である。「あらゆる対立は、稀少性から生ずる」ということはデイヴィッド・ヒュームも指摘しているところだが、そうだとすると、天国を正義や平和、相互愛etcといった性質を備えた世界として描く必要はないと言えるだろう。というのも、そういった性質は、「天国には稀少性が存在しない」という前提から導き出されるものだからである。稀少性なき世界に対して経済学を応用することなどできるのだろうかと訝る向きもおられようが、まさにポイントはそこにある。経済学の分析は、資源を効率的に配分する方法を説明するためだけではなく、仮に資源を効率的に配分する必要がないとした場合に天国にはどのような性質が備わっているはずであるかを発見するためにも利用できるのである。

神学者の多くは、天国の住人が「永遠の命」("everlasting life")を手に入れることになれば、天国には稀少性が存在しなくなる、と考えているようだ。本論の残りの部分で、「永遠の命」は天国に稀少性が存在しないための必要条件でも十分条件でもないことを示すことにしよう。

まずは、「永遠の命」ということで何を意味しているかを明らかにしておかねばなるまい。「永遠の命」を手に入れるということ、それ即ち、無限にわたって続くことが確実な時間軸の上で過ごすということ。そのように解釈すると、天国の住人に利用可能な時間は「無限の長さ」を持つということになる。その場合、「時間には稀少性が存在しないと言えるだろうか?」ということが問題になる。仮に天国の時間がこの世の時間と同じような性質を備えているとすれば、その答えは、「ノー」(言い換えると、やはり時間は稀少である)ということになろう。というのも、利用可能な時間が無限の長さを持っているとすると、天国の住人は、やりたいことなら何であれ、そのすべてを遅かれ早かれ(間隔をおいて)行うことは可能であっても、すべてを「同時に」行うことはできないからである(例えば、ハープを演奏しながら同時にプールで泳ぐことはできない)。まず最初に何をするかを選択しなければならない。つまり、天国の住人に利用可能な時間が無限の長さを持っていたとしても、時間は配分されねばならない*1 のである。それゆえ、「永遠の命」は天国に稀少性が存在しないための十分条件ではない*2 、ということになる。

天国に稀少性が存在しないためには、天国の時間がこの世の時間と性質を異にしている必要がある。ここで仮に、天国では、時間は無限の長さを持つだけではなく、「無限の幅(width)」も持つと想定することにしよう。ユークリッド幾何学における直線(長さはあっても幅はない)とは異なり、天国の時間軸は長さも幅も持ち合わせており、なおかつ、どちらの次元に関しても無限の広がりを持つ(長さも幅も無限)というわけである。時間が無限の長さを持つだけではなく無限の幅も持つとすれば、どの瞬間をとっても利用可能な時間は無限に存在することになる。それゆえ、行動(あるいは体験・経験)に対する時間上の制約は存在しないことになろう。行動に対する時間上の制約が存在しないということは、天国に稀少性が存在しないための条件の一つとなろう。

「無限の長さと無限の幅を持つ時間」という概念は、天国に稀少性が存在しないための条件の一つを定義づける上で十分なものだが、ところで、長さも幅もともに無限である必要はあるのだろうか? その答えは、明らかに「ノー」だろう。時間が無限の幅を持つとすれば、天国の住人は無限の(あるいは、自らが望むだけの)出来事を同時に(あるいは、一瞬のうちに)経験することが可能であろう。それゆえ、「無限の長さを持つ時間」という条件は、余計であり不必要でもある*3 、ということになろう。

結論をまとめよう。「天国には稀少性は存在しない」という前提を受け入れるとすれば、あの世での体験は、極めて密度が濃く(exquisitely intense)、はかなくも短いもの(fleetingly brief)ということになるだろう。この世に生きる大半の人々が天国での至福(bliss of Heaven)を体験することを強く拒む*4 理由は、「長さ」をその本質とするこの世の時間に慣れてしまっており、そのために天国の時間のあまりの短さに魅力を感じないためなのであろう。ただし、このように言えるのは、たった今経済学の力を借りて論理的に証明されたばかりのことを一般の人々が直感的にわかっているとすればの話ではある。

*1:訳注;A,B,C,D・・・といった一連の行動をどのタイミングで行うかを選択しなければらない

*2:訳注;天国の住人が「永遠の命」を手に入れることになるとすれば、天国には稀少性は存在しなくなる、・・・とは言えない

*3:訳注;天国の住人に利用可能な時間が無限の長さを持つ必要はない=天国の住人が「永遠の命」を手に入れる必要はない

*4:訳注;死にたくないと思う

ロバート・ルーカス 「名目GDP成長率は多かれ少なかれ直接的に金融政策によって影響されるのです」


Why a Second Look Matters”(CFR Symposium on a Second Look at the Great Depression and the New Deal, New York Council on Foreign Relation, March 30, 2009)におけるロバート・ルーカスの発言の抜粋訳。時間がないのでここでは抜粋訳にとどめたけれど、興味がある方は全てに目を通されることをお勧めする。

So, now, some numbers. The trend growth rate of the U.S. economy is 3 percent per year -- I'm talking about total GDP, real GDP. And we always -- we keep returning to it, it's been our -- the norm for well over a century. But, suppose right this minute GDP is 6 percent below the trend line? Then to recover in three years, to get out of a recession in three years, we need three years of 5 percent growth -- 3 percentage points just to keep up with the trend; and 2 percent, three times in a row, to get, to make up for the 6 shortfall. So, that's what it means to get out of a recession like this, roughly speaking.
(ここでいくつか数字をおさえておくことにしましょう。アメリカのトレンドの成長率は年率3%です。この成長率というのは実質GDP成長率です。アメリカ経済は常に(一時的に下回ることがあっても)このトレンドの成長率に回帰する傾向にあります。実質GDP成長率3%というのはここアメリカ経済においては1世紀以上にわたって経済の標準的なあり方だったのです。しかし、仮に今現在実質GDPの水準がトレンドを6%ポイント下回っているとしたらどうなるでしょうか? 今後3年のうちに回復するためには、あるいは今後3年間で景気後退から抜け出すためには、実質GDPは毎年5%のペースで成長する必要があります。トレンドの成長率が年率3%、そしてトレンドを6%ポイント下回っていますからそれを3年で埋め合わせるためには年あたり2%の成長が必要となります。あわせて5%ですね。アメリカ経済が景気後退から抜け出すためには今後3年間で実質GDPが年率5%で成長する必要があるということですね。)

Now, in a free society the growth rate of real GDP is not something anyone can choose -- any individual or government can choose. What we can choose, though -- and this is roughly speaking, we've had some debates about that this morning, what we can choose is the growth in the dollar value of GDP. The growth of GDP in dollars is more or less directly influenced by monetary policy.
(しかしながら、自由な社会におきましては、実質GDP成長率は誰か−特定の個人や政府−によって選ぶことができるような変数ではございません。・・・(略)・・・しかしながら、ドルで測ったGDPの成長率(名目GDP成長率)なら選ぶことができます。名目GDP成長率は多かれ少なかれ直接的に金融政策によって影響されるのです。)

So I'm going to talk in terms of choosing -- (inaudible) -- say exaggeration, the rate of nominal growth, and then the real growth rate and the inflation rate have to add up to that thing. So we can, kind of, choose the sum of the inflation rate and the real growth rate. So from that point of view, if you want 5 percent real growth, and we're going to have an inflation target of, say, 2 percent, then that nominal growth is going to be -- we're going to have three years of nominal growth at 7 percent.
(そこで(目標とする)名目GDP成長率を選ぶということになりますと、実質GDP成長率とインフレ率とを足し合わせる必要があります。(実質GDP成長率を選ぶことはできませんが)実質GDP成長率とインフレ率との合計(和)を選ぶことはできるわけですね。そうしますと、仮に年率5%の実質GDP成長率を目指す場合は、目標とするインフレ率を2%に定めるとしますと、名目GDP成長率は7%ということになります。この場合、今後3年間で名目GDPは年率7%で成長するということになるでしょう。)

Now, the fact is, we don't have any reliable way -- Mr. Schramm talks -- (laughs) -- talks about what economists don't know, and my talk's going to be full of instances -- we don't have a reliable way of relating changes in monetary policy to changes in nominal GDP growth in the short-term. And we can't predict exactly how nominal GDP changes will break down into real growth and inflation.
(・・・(略)・・・ただし、短期的にみて金融政策の変化が名目GDP成長率のどのような変化となって表れるかを確証をもって語れるだけの知識を今のところ私たちは持ち合わせていない、という事実は指摘しておく必要があるでしょう。名目GDP成長率の変化が実質GDP成長率とインフレとの間にどのように分解されることになるかを正確に予測することはできないのです。)

・・・So nominal growth -- my argument before, my sketch of the hypothetical three-year recovery, said that something like a 7 percent growth rate in nominal GDP would be helpful. The nominal growth is way below 5 percent, or even 3 percent at an annual rate right now, and the forecasts for 2009 are for near zero growth.
(先に語りましたように、仮に今後3年のうちに景気回復を果たすつもりでしたら、名目GDPが年率7%のペースで成長するようであれば役立つことでしょう。しかし現在名目GDP成長率は5%を下回っており、年率3%程度だとも言われています。そして2009年に関してはほぼ0%という数字が予測されています。)

So if we don't change the rate of growth of nominal income, and we want to get a 5 percent real growth, we're going to have to have an offsetting deflation of 5 percent. And these things have to add up. And that's just not going to happen. It is not possible to pull a modern economy through a neutral or painless deflation. Economic theory doesn't really tell us why -- what's hard about it. But, the evidence, I mean, it just doesn't work.
(仮に予測通りにこの先名目所得の成長率がゼロ%で、しかしながら実質GDP成長率5%を目指すつもりであるならば、それに対応して5%のデフレーション(マイナス5%のインフレ率)を伴う必要があります。名目所得の成長率の値を得るには実質GDP成長率とインフレ率とを足し合わせる必要がありますからね。しかし、そういったこと(5%の実質GDP成長率と5%のデフレーション)は起こらないでしょう。現代の経済においては、中立的なデフレ、もしくは、痛みを伴わないデフレというのはあり得ないからです。どうしてそう言えるのかを経済理論(モデル)でうまく説明することはできません。しかし、実際の証拠に照らすとそうはいかない*1でしょう。)

I think the long, drawn out recession in Japan is exactly because the nominal income in Japan has grown at something -- you know, for 15 years at rates that average somewhere between 1 (percent) and 2 percent. Now, if you're going to get 3 percent real growth, that means you got to have a negative deflation for all those years, and it just doesn't -- it hasn't been good for Japan. Those numbers are much smaller than the 1930s, but it's a serious -- it's a serious mistake.
(日本が長引く景気後退を経験している理由もまさにこの点*2にあると思います。日本の名目所得の成長率はここ15年の平均で見ますと年率1〜2%程度でした。そういった状況*3において実質GDP成長率3%を目指すとなりますと、デフレーション(マイナスのインフレ率)が伴うことになりますが、デフレは日本経済にとって好ましくないでしょうし、現にこれまでも好ましいものではありませんでした。これまで日本が経験してきたデフレの値(デフレ率)は1930年代と比べるとずっと軽微なものですが、重大な過ち(serious mistake)には違いありません。)

*1:訳注;そうはいかない=名目所得の成長率がゼロ%である時に実質GDP成長が5%で成長し、インフレ率がマイナス5%となることはない、ということ。実質GDP成長率は5%を下回る(例えば実質GDP成長率が2%でインフレ率はマイナス2%、といったように)、ということを言いたいのだろう。

*2:訳注;名目GDP成長率が低迷していた点

*3:訳注;名目GDP成長率が年率1〜2%であるような状況

assorted link;マネタリー・コンスティテューション


●J. M. Buchanan, “Monetary research, monetary rules, and monetary regimes(pdf)”(Cato Journal, Spring/Summer 1983, vol.3(1), pp.143-146)

●J. M. Buchanan, “The relevance of constitutional strategy(pdf)”(Cato Journal, Fall 1986, vol.6(2), pp.513-517)

●J. M. Buchanan, “Constitutional efficiency and the European Central Bank(pdf)”(Cato Journal, Spring/Summer 2004, vol.24(1/2), pp.13-17)

●J. M. Buchanan, “The Constitutionalization of Money(pdf)”(Cato Journal, Spring/Summer 2010, vol.30(2), pp.251-258)

●Domenico D’Amico, “Buchanan on monetary constitutions”(Constitutional Political Economy, December 2007, Volume 18, Issue 4, pp. 301-318)

●Robert L. Greenfield and Leland B. Yeager, “A Laissez-Faire Approach to Monetary Stability(JSTOR)”(Journal of Money, Credit and Banking, Vol. 15, No. 3 (Aug., 1983), pp.302-315)

●L. B. Yeager, “Toward Forecast-Free Monetary Institutions(pdf)”(Cato Journal, Spring/Summer 1992, vo.12(1), pp.53-73)

●F. E. Kydland and M. A. Wynne, “Alternative monetary constitutions and the quest for price stability(pdf)”(Federal Reserve Bank of Dallas Economic and Financial Policy Review, vol.1(1), 2002, pp.1-19)

●Bennett T. McCallum, “Alternatives to the Fed?(pdf)”(Cato Journal, Fall 2010, vo.30(3), pp.439-449)

●Lars Christensen, “Forget about “hawks” and “doves” – what we need is a “monetary constitution””(The Market Monetarist, January 12, 2013)

●Steven Horwitz, “Market Monetarism and the Monetary Constitution”(Coordination Problem, January 12, 2013)

●Steven Horwitz, “Do We Need a Distinct Monetary Constitution?”(Prepared for the Fund for the Study of Spontaneous Order’s Lifetime Achievement Award Conference in honor of James M. Buchanan, September 2010;ジャーナル掲載版はこちら

「ポーゼン、日本経済の行方について語る」を語る


恒例の(?)あの友人とランチ。今年も相変わらず元気な様子で・・・今年も色んな意味で長い一年になりそうだ。

中央銀行の独立性」については去年一緒にランチした際に話したけれど、直近のhimaginaryさんのブログでも独立性の話題が取り上げられているよね。

●「中央銀行の独立性は政府支出を増加させる」(himaginaryの日記, 2013年1月9日)
●「スティグリッツ「中央銀行の独立なんかいらない」」(himaginaryの日記, 2013年1月10日)


そういえばアダム・ポーゼン(Adam Posen)の年末のインタビューでも中銀の独立性について触れられていたよね。「目標の独立性」と「手段の独立性」とをちゃっかりと区別した上で、政府が中央銀行に対して特定の手段の行使を強制するのは「手段の独立性」の侵害だけれど、政府が中央銀行の政策に文句を述べたり注文をつけるのは独立性(「手段の独立性」)の侵害でも何でもないって語ってたよね。政府が中銀のパフォーマンスを評価して何が悪いの? アメリカ政府がFBIとかその他の「独立した」政府機関のパフォーマンスに口を出すのと同じでしょ?ってね。そして、国民の代表たる政府のトップが中央銀行の目標を定める(このことをポーゼンは「目標の依存性」(goal dependence)と表現しているけれど)のは「中央銀行の独立性」に何ら反するものではない、と語っているよね。

ちょっと待ってだよね。そのスピーチ探すからね。・・・あら、トランスクリプト(インタビューの文字起こし)もきてるよね。

●“A New Direction for Japan? Part I: Interview with Adam Posen”(Peterson Perspectives Interviews on Current Topics, December 31, 2012)

このインタビューは面白いよね。かつて君がブログで取り上げていたスピーチでも語っていたけれど、過去の日本で量的緩和がそれほど効果を持たなかったのは、日銀が自ら効果を持たないような方向にもっていってたんだから別に驚くことでもないよ。満期が短い国債を買ったり、中銀当局自ら「おそらくデフレは避けることのできない現象で・・・」とか政策効果を否定するような発言を繰り返してたらそりゃ効かないよ、と日銀に対して実に手厳しいよね。

その代わりに、インフレ目標の引き上げ+「おそらくデフレは避けることのできない現象で・・・」とか政策効果を否定するような発言をしない+購入対象資産の範囲を(長期国債社債、外国の(アメリカとかヨーロッパの国々の)国債などにまで)広げる、といった一連の政策の組み合わせに乗り出すべきだ、と語っているよね。

以上の政策は、どうやら安倍政権が推進するつもりらしいし、伊藤隆敏・岩田一政・浜田宏一といった日本の経済学者が提唱している政策でもあり、私(ポーゼン)も支持する政策だ、と語っているよね。

日本ではリーダーシップの変更に伴って時にラディカルな政策転換が行われることがある。日銀総裁の交代が間近に迫っているけれど、日銀総裁の交代に伴って金融政策の面でもラディカルな変更があるかもしれないよ、とも指摘しているよね。

インタビューのパートⅡでは現在の日本において財政政策を使うことに対して懐疑的な見解を表明しているよね。

●“A New Direction for Japan? Part II: Interview with Adam Posen”(Peterson Perspectives Interviews on Current Topics, December 31, 2012) 

“I strongly disagree on fiscal policy”って語っているよね。15年前であれば財政政策を使うのもグッドアイデアだったろうけど、現在の状況で(津波で被害を受けた設備等を補修する目的を超えて)財政政策を発動することに関しては疑問だよ、とね。

というのも、現在日本が抱える問題は総需要不足一般というよりはデフレと行き過ぎた円高にあり−そのため大規模な金融緩和は理にかなっている−、この15年の間にかなり政府債務も積み上がってきてるから、という理屈みたいだね。

“So, I think the monetary impetus is right, but I think that a fiscal stimulus right now for Japan―it’s always context specific when it works and when it doesn’t― I don’t think it’s productive.”

「そういうわけで、一層の金融緩和の発動は正しいけれど、今現在日本が置かれている文脈においては財政政策の発動は生産的ではないと思う−財政政策が効くかどうかは常に文脈に依存するものなのだ−。」

もう時間がなくて行かなきゃいけないけれど、トランスクリプトも準備してくれてることだし、時間に余裕があればインタビュー全部に目を通すことをお勧めするよね(今日は一切触れることができなかったけれど、インタビューでは日本と中国との緊張関係とそれが持つ意味についても触れられているよね)。それじゃまた、だよね。

・・・そうそうだよね。昨年のジャクソンホールシンポジウムで発表されたウッドフォードの論文は各地で評判になったけれど、ウッドフォードの討論相手を務めたのが誰であろう・・・そう、ポーゼンだよね。どうせ今日のこの会話もブログにまとめるんだろうから、ポーゼンのコメントのリンクもついでに貼っておいてだよね。

●Adam Posen, “Comments on “Methods of Policy Accommodation at the Interest-Rate Lower Bound” by Michael Woodford(pdf)”

「ジェームズ・ブキャナンよ、永遠に」


公共選択論(Public Choice)ならびに立憲的政治経済学(Constitutional Political Economy)の開拓者の一人であり、「経済的・政治的な意思決定の理論に対する契約的・立憲的な基礎付けを発展させた」(“for his development of the contractual and constitutional bases for the theory of economic and political decision-making”)業績を称えて1986年にノーベル経済学賞を授与されたジェームズ・ブキャナン(James Buchanan)が先日の水曜日にこの世を去りました。93歳でした。ブキャナンがその発展に貢献した公共選択論の概要についてはWSJのこの記事が端的にまとまっています。

With Gordon Tullock, Buchanan developed what became known as "public choice theory." Buchanan described it as the application of the profit motive to government: "It presupposes that if there is value to be gained through politics, persons will invest resources in efforts to capture this value."
ジェームズ・ブキャナンは、ゴードン・タロックとともに、今日「公共選択論」として知られる理論の発展に貢献した。公共選択論は政府に対しても利潤動機を応用したものだ(政府の行動を人々の利潤動機から説明しようとする)、とブキャナンは語っている。「公共選択論の立場では、もしも政治の場を通じて得られるような価値があるならば、人々はその価値の獲得を目指して資源を投資するだろう、と仮定する。」)

This may seem obvious after the special-interest tax bonanza that Washington doled out last week while raising taxes on millions of other Americans. But in the early 1960s, the notion that politicians were anything but unselfish public servants was, well, under-appreciated. Public choice, he wrote, was nothing new but "incorporates an understanding of human nature" that prevailed in the 18th century.
(先週ワシントンを舞台に繰り広げられた騒動−何百万もの一般の人々の税金を引き上げる一方で、一部の利害関係者に対する税の施しを認める決定−を知る人間にとっては、このような見方は当たり前で自明のことのように思えるかもしれない。しかしながら、1960年代初頭においては、政治家を「無私の公僕」以外の存在として捉える見方は過小評価されていたのである。公共選択論は何ら新しいものではなく、18世紀に広く受け入れられていた「人間本性に関する理解をその中に組み込んだものである」、とブキャナンは語っている。)

In our own times "market failures were set against an idealized politics," Buchanan wrote in 2003. Public choice provided "a set of theories of governmental failures," or as Buchanan called it, "politics without romance."
(2003年にブキャナンはこう書いている。現代においては「「市場の失敗」は「理想化された政治」と比較される傾向にある」が、公共選択論は「「政府の失敗」に関する一連の理論」を提供することで「ロマンスなき政治」の立場に立つものである。)

So, for example, he could explain why bureaucracies had an incentive to expand their turf in order to increase their financial resources and power. Or why politicians keep tax rates high so they can dole out special credits and exemptions for those who would reward those same politicians. Or why pork-barrel politics is the abiding concern of legislators.
(そのような見方に立つことで、例えば、どうして官僚は自らの縄張りを広げようとするインセンティブを持つのかを説明することができ(金銭的な資源(予算等)や政治的な権力を増大させるため)、政治家が税率を高止まりさせたままにしておく理由(自分に投票してくれる有権者に対して税制上の優遇措置(給付や控除など)を見返りとして与えることのできる余地を残しておくため)も国会議員がバラマキ政治(あるいは利益誘導)に明け暮れる理由(自分の選挙区で公共事業等のプロジェクトを実施することで選挙区の住民から次回の選挙で一票でも多くの票を投じてもらうため)も説明できることになる。)

ちなみに、英語ではあるものの、ブキャナンの著書の多くはこちらで読むことが可能です。主著の大半も邦訳されているので、興味がある向きは是非一度手にとってみていただけたらと思います。
昨年2012年はブキャナン=タロック著『合意の計算』(『The Calculus of Consent』;邦訳『公共選択の理論−合意の経済論理』)の出版50年目にあたるということでPublic Choice誌で特集が組まれています。また2年前のJournal of Economic Behavior & Organization誌ではブキャナンの業績を巡って特集が組まれています。さらに、近々Springer社から『Public Choice, Past and Present−The Legacy of James M. Buchanan and Gordon Tullock』(Dwight R. Lee 編集)が出版予定とのこと。

ブキャナン教授のご冥福をお祈りいたします。


以下、私の目についた範囲で追悼リンク集をまとめておきます。

●Robert Higgs, “James M. Buchanan (October 3, 1919 – January 9, 2013)”(The Beacon, January 9, 2013)
●Randall Holcombe, “James M. Buchanan: 1919-2013”(The Beacon, January 9, 2013)
●Steve Horwitz, “RIP: James M. Buchanan (1919 – 2013)”(Bleeding Heart Libertarians, January 9, 2013)
●Alex Tabarrok, “James Buchanan (1919-2013), Appreciations”(Marginal Revolution, January 10, 2013)
●Dave Giles, “James Buchanan”(Econometrics Beat, January 9, 2013)
●Angus, “James Buchanan: a personal remembrance”(Kids Prefer Cheese, January 9, 2013)
●Tyler Cowen, “A few James Buchanan reminiscences”(Marginal Revolution, January 11, 2013)
●Tyler Cowen, “What made Buchanan special as an economist?”(Marginal Revolution, January 13, 2013)
●Timothy Taylor, “Some Thoughts on James Buchanan”(Conversable Economist, January 14, 2013)
●Richard McKenzie, “Richard McKenzie writes a tribute to James Buchanan”(Marginal Revolution, January 14, 2013)

ブキャナンの業績の概要や人柄を知りたい方は以上のリンクを参照してください。


●Wayne Leighton, “In Memoriam: James M. Buchanan”(Madmen, Intellectuals, & Academic Scribblers Blog, January 9, 2013)
●Edward Lopez, “James M. Buchanan: Complete Scholar”(Madmen, Intellectuals, & Academic Scribblers Blog, January 10, 2013)

つい最近この2人の共著である『Madmen, Intellectuals, & Academic Scribblers』という本が出版されました。アレックス・タバロックはこの本を指して(ブキャナンの「ロマンスなき政治」をもじって)「ロマンスなき革命」(“revolution without romance”)の立場に立つものと形容しています。公共選択論の枠組みに依りつつ、政治・経済制度の転換過程が分析されています(といっても私は未読)。特にこれまで公共選択論では軽視されがちであった「アイデア」が(政治・経済制度の転換過程において)果たす役割に着目しているとのことです。著書の概要についてはこちらこちらなどを参照してください。


●Lars Christensen, “The last brick – RIP James M. Buchanan”(The Market Monetarist, January 9, 2013)
●Bill Woolsey, “James M. Buchanan 1919-2013”(Monetary Freedom, January 10, 2013)

いわゆる「マーケット・マネタリスト」の立場に立つ論者の2人ですが(Christensenは「マーケット・マネタリスト」の名付け親です。詳しくはsacred_starさんによるこちらこちらの邦訳を参照してください)、ブキャナンのマネタリー・コンスティテューション(monetary constitution)を巡る研究に触れています(ビル・ウールジーに関しては“Index Futures Convertibility: A Constitutional Approach”や“James Buchanan on Constitutional Monetary Reform”も参照)。マネタリー・コンスティテューションというのは簡単に言うと貨幣制度を特徴づける(あるいは基礎づける)ルールということになりますが、「レジーム転換」の話題と無縁ではないかもしれません。マネタリー・コンスティテューションの観点から「レジーム転換」を捉える、という方向性もあるのかもしれません。マネタリー・コンスティテューションの話題に対するブキャナンの見解について詳しくはCato JournalのVol.6(2)でのPeter Bernholzとのやり取りやhimaginaryさんのブログエントリー「はだかの経済学者」等を参照してください(私自身はまだ手が回っていないのですが、マネタリー・コンスティテューションが主題となっている本に、L.B.Yeager(ed.)(1962)『In Search of a Monetary Constitution』(Cambridge, Mass., Harvard University Press)があります。ブキャナンの論文(“Predictability: The Criterion for a Monetary Constitution”)も収録されています。このブキャナン論文については、Peter J. Boettke and Daniel J. Smith, “Robust Political Economy and the Federal Reserve(pdf)”で概要が説明されています。)


●Mario Rizzo, “James M. Buchanan: A Preliminary Appreciation”(ThinkMarkets, January 9, 2013)
●Don Boudreaux, “Jim Buchanan: An Economist’s Economist”(Cafe Hayek, January 9, 2013)

この2人はオーストリア学派を自任する論者ですが、オーストリア学派と公共選択論との間には強いつながりがあります。この点について詳しくは以下のリ−ソン=ベッキー論文を参照してください。

●Peter T. Leeson and Peter J. Boettke(2003), “An ‘Austrian’ Perspective on Public Choice”(ENCYCLOPEDIA OF PUBLIC CHOICE, Charles Rowley, ed., Kluwer Academic Publishers, 2003)


●Arnold Kling, “James Buchanan and the Ideological Divide”(askblog, January 9, 2013)

このクリングのエントリーではブキャナンの著書『Cost and Choice』から個人的に強い影響を受けたことが語られています(この本に言及しているのはクリングだけに限られませんが)。以下に『Cost and Choice』の序文のさわりだけを訳しておくことにしましょう(この本には邦訳が存在する(山田太門訳『選択のコスト―経済学的探究』)ので興味がある方は邦訳書にあたってください)。

あなたは今選択に直面している。この序文をこのまま読み続けるべきか、それとも別の本を読むべきか、物思いにふけるべきか、何かものを書くべきか、を決定しなければならない。「序文を読み続ける」という選択肢以外の一連の選択肢の中であなたが最も魅力を感じる選択肢に対してあなた自身が置く価値がこの序文を読み続けるためにあなたが支払わねばならないコストである。そのコストはまったく主観的なものであり、またそう(主観的なもの)でしかあり得ない−というのも、そのコストは(「序文を読み続ける」という選択肢以外の)他の機会がもたらすであろうと今現在あなた自身が考える価値だからである−。この序文を読むと決めた時点で、(「序文を読み続ける」という選択肢以外の)他の選択肢が現実のものとなるチャンス、ひいてはその他の選択肢が有する(あなたにとっての)価値を測るチャンスは永遠に失われてしまうことになる。他の機会がもたらすコスト(あるいは価値)が人の行動を変え得るのは、(この序文をこのまま読み続けるべきか、それとも別の本を読むべきか、物思いにふけるべきか、何かものを書くべきか、という一連の選択肢を前にした)選択の瞬間においてしかないのである。

「流動性の罠」下におけるインフレーション・ターゲッティング:日本経済に埋め込まれた排中律


●Paul Krugman(1999), “Inflation targeting in a liquidity trap: the law of the excluded middle

パソコンのハードディスクを整理していたら途中まで訳してほったらかしにしていたのを発見。折角なんで最後まで訳してみた。1999年に書かれた論説です。

噂によると、日本銀行が目標の上限値としてプラスのインフレ率を設定するインフレーション・ターゲッティング(の一種)の採用を検討しているらしいとのこと。この噂が本当だとすればいいニュースだ。というのも、ついに日本人自身が自分たちの置かれている状況がいかなるものかを理解し始めつつあることを意味しているからだ。でも本当にそう言える*1んだろうか? どうだろう。というのも、噂として聞こえてくるインフレ率の目標値があまりにも低過ぎるからだ。もし(インフレ率の目標値が)噂通りだとすれば彼らはまだちゃんと理解していないということになる。「流動性の罠」に嵌ってしまった国が直面してる選択は、かなり高めのプラスのインフレ率(significant positive rate of inflation)かジリジリと軋むように進むデフレーション(grinding deflation)かのどちらかなんだ。中間なんてものは存在しないんだThere is no middle ground.)。

この主張を支える議論は単純なものだけれど、理解するのは難しいようだ。ここで均衡実質利子率−完全雇用下において貯蓄と投資(海外純投資を含む)が等しくなるような利子率−がマイナスだと想定することにしよう(僕自身“Japan: still trapped”(山形浩生氏による邦訳はこちら)で説明を試みたけれど、均衡実質利子率がマイナスになるっていうことが「流動性の罠」に嵌っているということを意味することになるんだ)。さらに、失業が存在していても価格はすぐには下がらないとしよう。この時、期待インフレ率があまりにも低過ぎて実質利子率が十分低下しないようであれば−例えば、経済がマイナス3%の実質利子率を「必要としている」( "needs")のに、期待インフレ率がプラス1%でしかないならば―、不完全雇用と緩やかなデフレが依然として継続することになるだろう。そうなると(目標値が低すぎる)インフレ目標はすぐにも信頼を失うことになり、話は再び出発点に戻ってきてしまうことになるわけだ。

つまりはこういうことだ。インフレ目標がうまくいく可能性があるのは目標値が十分高く設定される場合に限る、ということだ。目標値が十分高く設定されて、そしてその目標が達成されると信じられれば、実際にもインフレが生じるに十分なだけの刺激が経済にもたらされることになるだろう。目標値があまりにも低く設定される場合にはインフレ目標は失敗する運命にあるんだ。

「調整インフレ」("managed inflation")提案の一見した過激さを和らげたがる人々−「そんな高めのインフレ率じゃなくて、物価安定(例えば1%のインフレ率)を目標にしちゃいけないの?」と応じる人々−が流動性の罠を巡る議論のポイントをわかっていない理由もここにある。“Japan's trap”(山形浩生氏による邦訳はこちら)の中でも語ったように、現在日本が経験しているデフレ圧力は、将来の期待物価水準と比べて現在の物価水準を低下させることを通じて、経済にとって必要なインフレーションを生み出そうと「試みられる」("trying")過程で生じる現象なんだ。同時に景気が低迷しているのは、デフレーション(物価の下落)は急速には進まないし痛みを伴うことなしに進むこともないからなんだ。

これまでの話を受け入れるのに抵抗を感じるというのは理解できることだ。政策当局者たちはこれまで語ってきたような逆説的に聞こえる問題の取り扱いには慣れていないし、何とかして中道路線を歩もうと試みるのが彼ら政策当局者たちの本能だからだ。でも、日本経済に埋め込まれたこの排中律とでも呼べるもの*2は学者が思い付きで語る抽象的な屁理屈なんかじゃない。筋の通った分析から導かれる避けられない結論なんだ。

最後にポイントを大文字でまとめておこう。

「インフレ率の目標値が十分高い水準に設定されない限り、日本におけるインフレーション・ターゲッティングは失敗に終わるだろう。」
(INFLATION TARGETING IN JAPAN WILL FAIL UNLESS THE TARGET IS SET HIGH ENOUGH.)

*1:訳注;日本経済が置かれている状況がどんなものかを理解し始めていると言える

*2:訳注;「流動性の罠」に嵌ってしまった国が直面してる選択は、かなり高めのプラスのインフレ率かジリジリと軋むように進むデフレーションかのどちらかしかない、ということ。