Cowenの「多様な私」論


コーウェン(Tyler Cowen)の「多様な私」論は師であるブキャナン(James Buchanan)やシェリング(Thomas Schelling)への(批判的な)応答といった側面もあるのではないかと勝手に推測。ブキャナンへの応答という点に関してはまだ考えがはっきりしていないけれども(ブキャナンの“Natural and Artifactual Man”(『What Should Economists Do?』(pp.93-112)所収)なんかが念頭にあるのではないかと予想)、シェリングへの応答という点は以下の論文に表れていると思われる。

●Tyler Cowen(1991)、“Self-Constraint and Self-Liberation(pdf)”(Ethics, Vol.101(2), pp.360-373)


『Discover Your Inner Economist』で論じられている「私の中の経済学者」(inner economist)は、「多様な私」を統括する(または「多様な私」に秩序を与える)ための、あるいは自己欺瞞に陥らないための一人の「冷静な私」のことであり、その意味でこの本は「私の中の経済学者」という「冷静な私」を発見・強化するための指南書(啓蒙とも表現できるかもしれない)といった側面も持ち合わせているのかもしれない(経済学の各分野における「合理性」(rationality)概念の利用の仕方の違いを論じている“How Do Economists Think About Rationality?(pdf)”は、「経済学者」自体が一枚岩ではないこと、また一枚岩である必要もないこと=「多様な経済学者」像の提示であり、「多様な私」論と無関係ではないのではないかと思われる)。


Discover Your Inner Economist: Use Incentives to Fall in Love, Survive Your Next Meeting, and Motivate Your Dentist

Discover Your Inner Economist: Use Incentives to Fall in Love, Survive Your Next Meeting, and Motivate Your Dentist


(追記)コーウェンの「多様な私」論は公共選択論の建て直しといった面も持ち合わせていると考えられる。どういうことかというと、ウィットマン(Donald A. Wittman)による伝統的な公共選択論への批判に対して、「多様な私」論あるいは「自己欺瞞」論に基づいて「政治の失敗」を論証すること、つまりは「政治の失敗」のミクロ的基礎付けを行なうことが「多様な私」論の持つ一つの側面であると考えられるのである(参考;Tyler Cowen, “Self-Deception as the Root of Political Failure(pdf)”)。この意味では「多様な私」論は伝統的な公共選択論の基礎固め(=ブキャナンの擁護)の役割を担っていることになる。カプラン(Bryan Caplan)による「合理的な不合理」(rational irrationality)論は公共選択論の建て直しという点でコーウェンと問題意識(ならびに方法論)を共有していると思われる(参考;Bryan Caplan,“Rational Irrationality and the Microfoundations of Political Failure(pdf)”(これはWP。同タイトルでPublic Choice(Vol.107(3/4), June 2001, pp.311-331)に掲載)。
コーウェンの議論に従えば、「政治の失敗」を避けるためにはその源としての自己欺瞞の問題に対処せねばならず、自己欺瞞に陥らないためには(=「特定の私」への固執から逃れるためには)「違った私」を獲得する機会の拡張*1ならびに「冷静な私」(=「特定の私」への熱狂に対する冷却剤)としての「私の中の経済学者」を育成・強化する動機付けとが必要である、ということになるのであろう。また、民主主義という政治制度は、政治的権力の個人への集中をできる限り回避することによって個人の自己欺瞞に社会全体が振り回される危険性を防止する利点をそなえたシステムとして評価されることになるであろう。

*1:コーウェンは多様な文化・芸術に触れ合うことを至るところで推奨しており、その理由の背景として多様な文化・芸術に触れ合うこと=「違った私」になること、と捉えているからではないかと考えられる。多様な文化・芸術に触れる機会を拡張するグローバリゼーションへのコーウェンの肯定的評価もこうした点(=自己欺瞞に基づく「政治の失敗」の回避)から発しているのであろう。