タロック著「外部性と政府」


●Gordon Tullock(1998), “Externalities and Government”(Public Choice, Vol.96, No.3/4, pp. 411-415)

スティグリッツはその著書である『Whither socialism』の中で不完全情報下あるいは不完備情報下での市場均衡は一般的にはパレート効率的ではないとの主張を行っている*1。さらには情報面で同様の制約に直面している政府はそのような市場均衡の結果を改善し得るというのである。こう主張することで、スティグリッツは一般的な通念(conventional wisdom)に従っているのである。スティグリッツにとっては、以上の主張は政策的な積極主義(policy activism)の利点を立証する中心的な命題となっている。もちろん、スティグリッツの立場をこのようにまとめることは完全には正しくない。スティグリッツは政府は最終的な結果を改善し得る(it can achieve better outcomes)と主張しているのであって、改善するだろう(it will achieve better outcomes)とまでは主張していないのだから。スティグリッツも従う一般的な通念には2つの問題がある。まず第1の、そしてそれほど重要ではない問題は、暗黙のうちに経済主体が現実には疑わしい動機に従って行動していると想定していることである。スティグリッツは、民間の市場参加者は自分自身の効用を最大化することのみに動機づけられており、一方で政府の役人は善行をなす(do good)ものと想定しているのである。
我々はこの想定をひっくり返して、政府の役人は自分自身の効用を最大化しようと努めており、民間の市場参加者は―おそらくはトマス・アクィナスの言説から影響を受けて―善行をなそうとしていると想定することもできよう。このような状況の下では、政府はパレート効率的な結果を実現することはできないであろうし、反対に市場は最終的な結果を改善し得るであろう―スティグリッツも認識しているように、改善することになるかどうかは明らかではないが―。
もちろん、スティグリッツが暗黙のうちに想定し、また今ここでも想定したように、経済主体が単純な一方的な動機に従って行動していると考えることはあまり現実的とはいえない。民間の市場参加者も政府の役人もともに自分自身や自身の家族の福祉に関心を持っていることはもちろんのこと、両者ともにある程度は貧しい人や虐げられている人を助けるために自己犠牲を払おうとするであろうし、また道徳的な義務を果たそうとも心掛けているであろう。私自身の経験から判断すれば、政府の役人は民間のビジネスマンほど他者の救済には関心を持っていないと言えるだろうと思う。
私がこのように判断するのは、政府の役人は民間のビジネスマンと比較して自身の私的な利益を自分自身からも容易に隠すことができるようになっているからである。もちろん、私のこの判断にはバイアスがかかっているだろう。私のこの判断は、私がアメリカ合衆国国務省―特にその中の外交局―の役人であった時代の経験に基づいており、外交局というのは他者のために役立つ何らのことをするのが特に厄介な部署なのである。
しかしながら、本論文の主要なテーマは、多くの他の経済学者と同様にスティグリッツが経済主体の動機を取り違えているということにあるのではなくて、スティグリッツそしてこの分野で研究をしている私が知り得る経済学者のほとんど(私自身も含めて)が、市場に外部性が存在することをもって政府の市場介入の根拠としていることに関連してのことである。外部性の存在によって政府介入を正当化し得るということ自体に疑義を呈するつもりはないが、本論文で私は政府自体もまた外部性を生み出すのだということを指摘しようと思うのである。ここで私が「外部性」の意味を変えようとしているわけではないことに注意してほしい*2。あるケースにおいては、政府が外部性を生み出すゆえに問題の解決を市場に委ねる方が望ましいということがあり得るかもしれないのである*3
本論文の以下の議論においては、政府は単純な民主政府(democratic government)の形態をとっており、Public Choice 誌において論じられてきた政府にまつわる種々の問題はあれこれの手段を通じて解決されていると―現実にはありそうもないことではあるが―想定することにしよう。また、政府は国民の多数派が望むことをそのまま自動的かつ速やかに実行し、国民の多数派が望まないことは決して行わないと想定しよう。
以上のような想定に立つ理想的な民主政府でさえも深刻な外部性を生み出しうるということはこれまで見過ごされてきた*4。政府が生み出す外部性の第1の明らかな例は戦争である。民主主義下での意思決定の問題を扱う議論すべてにおいて、投票できる人間だけがその国の市民であるとの仮定が暗黙のうちに紛れ込んでいる。このような仮定は決して正当化し得ないが、ここではこの点に関してあれこれ言うことはやめておこう。にもかかわらず、数十年前に東京やベルリンの市民の多くが政府の生み出す深刻な負の外部性の犠牲になったことは明らかであり、また最近時のバグダッドへの空爆もまた政府が生み出す深刻な外部性の例である。読者の多くはこういった外部性を生み出す(アメリカ)政府の行動に対して反対することはないと思うが、しかしながら、(攻撃される国の人々にとっては)確かにこれらは(アメリカ)政府が生み出す外部性に違いはないのであり、(アメリカ)政府が生み出す外部性の犠牲になった人々は政府の生み出す外部性に直面することを望んでいなかったという点は認識しておかなければならない。
次に政府が生み出す外部性の中でもヨリ簡潔で直接的な事例に話題を転じよう。ここである政策が提案され、国民の多数派がその提案を支持したとしよう。ここでまず指摘しておくべきことは、少数派は明らかにこの意思決定から外部性を被るということである。この提案に対して反対票を投ずる可能性が残されているのだからこれは外部性とはいえないと主張する向きもあるであろう。しかしそれは言葉の定義を巡るどうでもいい屁理屈のようなものである。少数派であることによって政府の行動に苦しめられる人々は負の外部性ではない何ものかに思い悩まされていると言い直したいのであればそれはその人の勝手だが、少数派の人々が自らが望まない多数派の決定に従わざるを得ない事実をどのように表現しようと本論文の議論が影響を受けるわけではない。
市場においてと同様に、政府によって正の外部性が生み出される可能性にも目を向けておくべきであろう。先ほどの国際的な政治・外交の話題に戻ると、アメリカ政府は多額のお金を―アメリカのGDP比でみるとごく小さな割合かもしれないが、絶対額でみると非常に高額な現金を―様々な国に贈与している。アメリカ政府によるこの他国への贈与は、贈与を受ける国々の市民の便益となっている以上にスイス銀行の便益になっている(=仕事が繁盛する結果として)可能性もあるであろうが、それにもかかわらずこの例は(アメリカ)政府が生み出す正の外部性の例であることに違いはない。戦争の例に戻ると、アメリカの軍事力は例えばフランスの国民にとっては非常に大きな正の外部性を生み出したとも捉えることができるであろう。
私が本論文で特に関心を持つのは一国の国内の状況に関してであるが、問題を国内に限定しても政府が生み出す外部性には2種類あることがわかるであろう。つまりは正の外部性と負の外部性があることを見出すであろう。第1の事例は、先に触れたように、ある投票者が強く反対し、実際にも反対票を投じた政策を政府が実施するケースである。反対票を投じた彼/彼女は外部性を被っている。もしこの彼/彼女が実際には自分にとって便益となる政策であるにもかかわらず無知によってこの政策に反対票を投じ、彼/彼女が少数派であることによってこの政策が実行に移されたとすれば、これは正の外部性の例ということになる。もし投票する気がなく実際にも投票をしない人にとっては、ある政策が自分にとって便益となろうが弊害となろうが、投票に無関心な彼/彼女はどちらにしろ政府の生み出す外部性を被っているということになろう。
政府が本論文で想定しているような単純な民主政府であるがゆえに生み出されるであろう外部性のケースがある。政府の行動は情報をあまり持たない無知な人々(badly informed)の声に左右される可能性もあれば、ある天才によって率いられる可能性もある。ここでアメリカ国民の多数派が、情報をあまり持たないがゆえに*5、ある政策が実際には自らにとって不利となるにもかかわらず自らに便益を与えるものと誤解しているとしよう。この政策が投票にかけられ多数派の支持を受ける結果として実行に移されれば、多数派はコストを負うことになるが、この結果を外部性の事例として捉えていいものかどうかは明らかではない。
アメリカ国民の多数派が政策の是非を判断するにあたって十分な情報を持っていない理由が、公共選択論学派の人々がこれまで主張してきたように、投票プロセスの特性に起因するものである(=投票プロセスに特有な制度的特徴*6が投票者に情報を獲得するインセンティブを削ぐものとなっているためである;引用者)としよう。この議論は政治的な意思決定の問題だけではなく、市場での意思決定の問題にもあてはまるであろう。市場のプレイヤーは完全情報を有している、あるいは必要な情報を十分有していると主張することは分別あるものとは言えない*7。以上の議論は、少数派だけでなく多数派もまた政府によって生み出される外部便益や外部費用を被ることがあるということを意味している。果たしてこのケースを真正の外部性と呼んでいいかどうかという点に関しては議論が分かれるところであろう。このような情報面での誤り(過少な情報に基づく誤解)は確かに市場においても生じる問題であるが、政治的な意思決定の場においてヨリ深刻なものであろう。
ここで我々がこれまで想定してきた単純な民主政府の事例からヨリ現実的な政府の事例―政府の政策がすべて国民投票にかけられるわけではなく、政府の決定の多くが官僚や裁判官、公務員、そして議会のような投票者の代議体によってなされている現実の政府の事例―に話題を転じることにしよう。現実の政府形態の下でもこれまでと同様に政府が外部性を生み出すという議論は成り立つ。というのも、現実の政府形態の下では、政府の政策の大半は政策によって影響を受けるすべての人々に直接コントロールされているわけではないからである。この事実がどれだけ重要であるかは容易には判断は下せないが、ともかくも、政府は何らかの外部性を治癒する存在であると規定するだけでは不十分であることは確かである。政府は外部性を治癒すると同時にまた別の外部性を生み出す存在でもあると指摘することを忘れてはならない。
本論文で私が主張したいことは、政府の市場介入を正当化するために外部性を持ち出すなということではない。私が言わんとしていることは、市場における外部性の解決策として市場を利用すべきか政府を利用すべきかという点を論じる際に、市場での外部性だけではなく政府が生み出す外部性もまた考慮に入れるべきであるということである。問題は政府と市場のどちらが最もうまく機能するかということであり、問うべき問いは、ある具体的なケースにおいて市場と政府それぞれが生み出す外部性のうち負の外部性のかたちをとりそうなのはどちらであり、またどちらの負の外部性が社会全体に対して深刻な害を及ぼすことになりそうかということである。すべてのケースに普遍的に妥当する原則というものがあれば喜ばしいところだが、そのような原則はなく、個々のケースごとに仔細な検討が必要となるであろう。例えば大気汚染のケースを考えてみよう。この問題について長らく取り組んできた人の中で政府による対処策の多くが失敗に終わると同時に惨憺たる結果を招いてきたことを否定する人はいないだろう。しかしながら、この問題について長らく取り組んできた人の中で大気中への汚染物質の放出を一切規制せずに放置するに任せることは規制を加えることよりも―政府のこれまでの対処策が完璧からほど遠かったとしても―ずっとまずい結果になるだろうことを否定する人はいないであろう。私は、政府がもっと分別をもって行動してくれればと望むところではあるが、大気汚染のケースに関しては政府介入を強く支持するものである。一方で、トラバント(Trabant)*8を目にしたことのある人は政府行動が生み出す外部費用は民間の市場が生み出す外部費用よりもずっと大きくなり得ることがあるという点に同意してくれるであろう。東ドイツの一般市民はこのポンコツ車以外の自動車を買う選択肢を与えられていなかったということを想起してほしい。
我々が下す判断は、大気汚染は政府によって規制されるべきであり、自動車の生産は民間市場の自由に任せるべきである、ということになるであろう。このどちらのケースにおいても、選ばれた手段*9はともにそれぞれ外部性を生み出すことになるであろうことはまったく明らかなことである。しかし、どちらのケースにおいても、選ばれた手段は代替的な手段に比べてヨリ少ない外部性を生み出すものなのである。
これまでの議論の要点を繰り返すならば、私が主張したいことは政府の市場介入を正当化するために外部性を持ち出すなということではない。私が主張したいことは、政府―民主主義的な政府であれ、独裁的な政府であれ―もまた独自の外部性を生み出すということである。ここで公共選択論の中心的なテーマの一つを繰り返すならば、そしてあえて強調するならば、我々は2つのそれぞれ不完全な手段*10のうちから選択を行っているということである。不幸なことに、2つの不完全な手段のうちからの選択を行うのはまさに政府なのであり、政府によるその選択の結果として外部性が生み出されるということになるであろう。


参考文献

○Rosen, H.S. (1995). Public finance. Homewood,IL: Irwin.
○Stiglitz, A.A. (1994). Whither socialism. Cambridge, MA: MIT Press.
○Stiglitz, A.A. and Greenwald, B. (1986). Externalities in economics with imperfect information and incomplete markets. Quarterly Journal of Economics 101: 229-264.
○Tullock, G. (1996). Provision of public goods through privatization. Kyklos 49: 221-224

*1:原注;Stiglitz(1994)、また彼とGreenwald(1986)との共著論文も参照せよ。

*2:原注;例えば、Rosen(1955, pp.577)のよく売れている財政学のテキストによれば、「外部性」は以下のように定義されている。「ある経済単位の活動が市場を通じることなく他の経済単位の福祉に影響を及ぼすこと」(“An activity of one entity (which) affects the welfare of another entity in a way that is outside the market”)。

*3:原注;例えば、私の論文“Provision of public goods through privatization”を参照せよ。

*4:原注;私自身も含めて多くの専門家によって見過ごされてきた。

*5:原注;ダウンズやタロックやあれやこれや(=合理的無知に関する議論)を参照せよ。

*6:decisivenessが低い、つまりは1人の投票者がどのように投票しようとも1人の投票者が最終的な投票の結果に与える影響は極めて小さい

*7:原注;ある意味で、完全情報の仮定をその中に含む完全競争モデルの開発は、経済学の発展を遅延させることなった一つの例である。

*8:原注;ベルリンの壁の記憶を共有していない人のために説明を加えておくと、トラバントというのは東ドイツ産のギョッとするような自動車のことである。

*9:大気汚染のケースでは政府規制、自動車生産のケースでは民間市場

*10:市場と政府