IS-LM再論

IS-LMモデルは物価一定の短期の仮定の下で、財市場と貨幣市場の均衡分析をおこなうものである。IS関係は投資=貯蓄という財市場のフロー均衡の状態を記述する。利子率の減少関数である投資と所得の増加関数である貯蓄は、財市場における所得の変動によって均等化される。任意の均衡状態において、企業の将来見通しの改善等により投資需要が増加すると、投資‐貯蓄のギャップ(I>S)が縮まるように所得が増加する(投資需要の増加が乗数倍の所得増加を引き起こす。貯蓄が投資に均衡するような水準まで所得は増加する)。反対に投資が減少すると(I<S)、貯蓄が投資需要の水準に等しくなるよう所得が減少する(このことは有効需要の原理の採用を意味する。つまり、所得ないしGDPの大きさは供給側の条件によって規定されるという古典派のセイ法則が否定され、一国のGDPの大きさは有効需要の大きさによって規定される。経済主体による財の“買行為”と“売行為”という2つのフロー行為の間に貨幣保有というストック行為が介在することによってセイの法則が否定されるという議論もある)。

LM関係は貨幣需要=貨幣供給という貨幣市場(IS-LMモデルでは、資産として貨幣と債券(長期債券)の二種類しか考慮されていないので、貨幣市場の均衡はストック市場のワルラス法則により同時に債券市場の均衡も意味することから、資産市場全体の均衡を意味することになる)のストック均衡の状態を記述する。貨幣市場においては、貨幣供給量(マネーサプライ)と貨幣需要が均等化するように利子率が調整される。任意の均衡状態において、所得増などの原因により貨幣需要貨幣需要は所得の増加関数)が増加すると、(マネーサプライが不変であれば)過大な貨幣需要が貨幣供給量と等しくなるように利子率が上昇する(貨幣需要は利子率の減少関数である。背後では債券市場での超過供給が生じており、結果として(債券の売り圧力が強まるため)債券価格の下落、つまりは利子率が上昇することになる)。逆に貨幣需要が減少した場合には、過少な貨幣需要が貨幣供給量に等しくなるように利子率が下落して貨幣の需給がバランスされる(古典派においては、利子率は投資(資金需要)と貯蓄(資金供給)という二つのフローを均衡させるように決定されると考えられる(貸付資金説)が、ケインズ流動性選好説の立場にたつIS-LMモデルにおいては、利子率はストックの貨幣市場の需給を均衡させるように決定される)。

縦軸に利子率を、横軸に所得をとった二次元の図上において、IS曲線は右下がりの曲線(利子率が下落し投資が増加すると投資-貯蓄ギャップを埋めるように所得が増加する)となり、LM曲線は右上がりの曲線(所得が増加し貨幣需要が増加すると貨幣の需給をバランスさせるよう利子率が上昇して貨幣需要を抑制させる)となる。二つの曲線の交点において、フローの財市場とストックの貨幣市場が同時に均衡する利子率と所得の水準が決まる。教科書でみるお馴染みの図である。

IS-LMモデルの下では古典派の二分法は否定されることになる。古典派の二分法(セイの法則と貨幣数量説)の世界では、実物市場の実体的な変数(雇用量、生産量、実質利子率など)は、生産技術の条件や消費者の選好といった実体的な諸条件に制約付けられ、相対価格の調整によって各市場の需給を均衡させるような水準に決定される。「供給はそれ自らの需要を生み出し」、価格の自動調整機能が阻害されない限り、非自発的失業は起こりえない。また、貨幣供給量の変化は、物価、貨幣賃金、名目利子率等名目変数の水準決定には大きな影響力を振るうが、実体的変数には何らの影響も与えることはできない(貨幣の中立性)。名目(絶対)価格は貨幣供給の数量によってメカニカルに決定されることになる。しかしながら、IS-LMモデルでは利子率を媒介として実物市場と貨幣市場が結び付けられているため、貨幣供給量の変化は実物市場にも影響を与えることになる。貨幣供給量が増加すると貨幣市場での需給調整の結果として利子率が下落し、利子率の下落は利子率の減少関数である投資を刺激することになる。LM曲線の右方シフトの結果として、投資需要の増加、そして所得・雇用の増加が引き起こされる。貨幣供給量の変動が所得(雇用量)という実体変数の変動を引き起こすわけである

IS-LMモデルにおいて古典派の二分法は否定される。しかしながら、IS-LMモデルはもうひとつの二分法に陥っている。ストックとフローの二分法である。

IS-LMモデルにおいて、IS関係は投資や消費・貯蓄といったフローの選択を、LM関係は貨幣・債券間の選択といったストック(資産)の選択を記述していることは前述した通りである。問題は投資・貯蓄といったフロー面での決定と貨幣や債券間の資産選択といったストック面の決定(バランスシ−トの構成)とが、まったく切り離されて考えられていることである。IS曲線の形状に対しストック変数はなんらの影響も与えず、LM曲線にはフローの財市場からの影響が見られない。フローの選択はフロー市場で、ストックの選択はストック市場で、それぞれ自己完結的に行為決定がなされる。ストックの決定ないしはバランスシート調整とフロー面の経済的な選択のあいだのつながりが捉えられていないわけである。それゆえIS-LMモデルにおいてはバランスシートの状態(ストックの選択の結果)が、各経済主体の投資や貯蓄の決定(フローの選択)を左右し得るということを想定していないことになる。

LM関係はストックの資産市場の状態を記述しているわけだから、LM関係は経済主体の(ストック市場で取引されている資産が吸収される)バランスシートの構成決定の問題(単純に資産選択問題と言ってもよい)を取り扱うものでもある。そこにおいて考慮に入れられている資産(金融資産)は、貨幣と債券(長期債券)の二種類であることから、バランスシート上には貨幣と債券の二種類の金融資産が保有されることになる。貨幣と債券の二つの資産の違いは、利子の有無に求められる。つまり貨幣には利子がつかず、債券には利子がつく。それゆえ、貨幣・債券のどちらを保有するか(バランスシ−トの構成の決定)は、貨幣保有機会費用である利子率(厳密には長期利子率の水準)を見極めて決定されることになる(貨幣需要が利子率の減少関数であることをケインズの投機的動機から説明する際には、利子率期待の非弾力性が前提されている。また、投機的動機に基づいて貨幣・債券間の資産選択を説明しようとすると同一経済主体のバランスシート上に貨幣と債券が共存することを説明し得ないという問題が生じる。貨幣需要が利子率の減少関数であることを取引動機から説明できることを示したものとしてTobin/Baumolによる在庫投資理論を援用したモデルがある)。利子率が高くなるにつれて債券の保有が選好され、逆に利子率が低くなると貨幣保有が選好される。このことは先述した貨幣需要関数が表現していることである。

しかしながら、経済主体のバランスシート上の資産構成の決定が利子率(収益率)のみに依存すると考えてよいのであろうか。また、資産を利子の有無だけによって区別しつくすことはできるのだろうか。利子(収益)を生む「債券」の中に含まれる諸資産間の選択はどのような点を考慮して決定されるのだろうか。これらの疑問に答えようとするならば、資産の他の属性―安全性や流動性―に対しても目を向ける必要がある。そして、経済主体が収益だけでなく安全性、流動性といった諸特徴も考慮したうえでバランスシートの構成を決定していることが認められるならば、バランスシートの状態とフローの選択が切り離しえないものであることが理解されるようになる。つまり、ストックとフローの二分法が否定される。

IS-LMモデルでは、「人々の消費・貯蓄の決定と、長年の貯蓄を蓄積した結果である資産の中身、すなわち貨幣か収益資産かの決定とが、まったく無関係なものとして切り離されてしまっているのである。・・・ストックの決定とフローの決定は相互に関連しながら同時に行われているわけで、これらを切り離して考えるわけにはいかないのである」(小野善康『金融』、p19)。IS-LMモデルが取りこぼした問題―ストック(バランスシ−ト上の資産構成)とフローの不可分性―を明示的に考慮することは、経済モデルを研磨し現実経済の働きに対する理解を深めるうえで避けては通れない道である。

↑大学時代のゼミのレポートかなんかだったかな〜。若いね〜。

流動性のワナ

貨幣需要の投機的動機=貨幣と「債券」(コンソル債)間の資産選択の問題、について(堀内昭義著『金融論』、p140〜144参照)。コンソル債(確定利付き債)の流通価格;P=cF/i (F:額面価格、c:クーポン率、i:利子率(最終利回り))

コンソル債を1年間保有することによる収益率(1年後に市場で売却);P(0)=cF/(1+α)+P(1)/(1+α)→α=[cF+(P(1)-P(0))]/P(0)%20(P(0)・P(1);現在・1年後の債券の流通価格、α;収益率=利息とキャピタルゲインを現在の市場価格で割った値)

(a)i(0)=C/P(0) (C=cF)

(b)α=[C+(P(1)-P(0))]/P(0)=i(0)-(i(1)-i(0))/i(1)


(b)の導出過程;α=C/P(0)+P(1)/P(0)-1=i(0)+[C/i(1)]/[C/i(0)]-1=i(0)+i(0)/i(1)-1=i(0)+[i(0)-i(1)]*1/i(1)=i(0)-(i(1)-i(0))/i(1)

(b)に示されているように収益率αと最終利回りiは一致するとは限らない。来期の利子率が今期よりも高まると予想される時(i(1)>i(0))、収益率αは最終利回りi(0)を下回る。来期に利子率が高まると予想することは債券価格が下落すると予想していることと同値であり、最終利回りが正であってもキャピタルロスを嫌気して貨幣が保有される場合が存在する(i(1)>i(0)と予想し、また利子率の期待上昇幅がかなり大である時に、収益率αがマイナスになる場合がある)。i(1)がある一定値に止まり続ける場合、今期の利子率i(0)が下落すればするほど将来の債券価格の下落が期待され貨幣に対する需要が高まることになる。このようにして投機的動機に基づく貨幣需要は利子率の減少関数として規定される。

利子率の減少関数である流動性選好関数(貨幣需要関数)を導くに際して、i(1)に関する「非弾力的な期待」という仮定(人々は利子率に関してある正常な水準が存在すると想定しており、正常利子率に関する期待は今期の利子率変動の影響をそれほど受けない)が背後に存在する。

今期の利子率i(0)の変化が来期の利子率i(1)にどれだけの変化をもたらすかを表現する指標として期待の弾力性βを定義。β=[di(1)/i(1)]/[di(0)/i(0)]である(今期の利子率が1%上昇した時、来期の利子率が何%上昇するかを測定)。

(c)(=(b)を全微分);dα/di(0)=1+(1/i(1))(1-β)

(c)((b)=i(0)+i(0)/i(1)-1)の導出過程;dα=[∂α/∂i(0)]*di(0)+[∂α/∂i(1)]*di(1)=[1+1/i(1)]*di(0)+[-i(0)/i(1)*i(1)]*di(1)→(両辺をdi(0)で割る)dα/di(0)=[1+1/i(1)]-{i(0)/[i(1)*i(1)]}*[di(1)/di(0)]=1+(1/i(1)){1-[i(0)/i(1)]*[di(1)/di(0)]}=1+(1/i(1))(1-β)

期待の弾力性が小さい時(1よりも小の時)、今期の利子率i(0)の上昇は債券の期待収益率αを上昇させることになる。今期の利子率が正常水準を上回ったとしても、人々は利子率は正常値に回帰(下落)してくるだろうと判断する(今期の利子率上昇を観察してもそれに併せて将来の利子率期待(正常利子率)を上方修正しない)。つまりは債券価格が上昇することを期待(キャピタルゲインの獲得を期待)して債券への需要が増加、貨幣需要は減少するわけである。利子率上昇が貨幣需要を減少させる。流動性選好関数の出来上がりである。

長い長い前置きはこれにて終了。この記事を書いた理由は別のところにある(昨日の記事で非弾力的期待に触れたのでそれについても書こうとは考えたけれども)。同書のp145〜146における流動性の罠に関する記述が実に興味深く、そのことを論じたかったわけである。その部分を引用。

流動性のワナが生じる)第二の可能性は、今期の貨幣供給の増加が、将来の金融引締めの期待を生み出し、人々の利子率の期待値i(1)が上昇してしまう場合である。この場合には、貨幣供給曲線MMの右方向へのシフトに対応して、需要曲線LLが同じく右方向へシフトする。その結果、資産市場の均衡は、以前とほぼ同じ利子率水準の下で成立するのである。(p145)

縦軸が利子率を、横軸が貨幣需要・供給量を表す二次元の図上において、右下がりの貨幣需要曲線(LL、利子率が低下すると貨幣需要が増加)と縦軸に平行な貨幣供給曲線(MM)が交差する点において貨幣市場は均衡する。利子率の期待値i(1)が上昇した時、(b)より債券の期待収益率は低下するので債券需要は減少する。この時、同じ利子率i(0)の水準における貨幣需要は増加するので、需要曲線LLは右方へシフトするのである。「今期の貨幣供給の増加が、将来の金融引締めの期待を生み出」すと(c)においてβが負の値をとることになり、債券価格の急激な下落が期待されて(1/i(1)の下落幅との兼ね合いによるが)、そうでない場合と比較すると貨幣需要がヨリ強まることになる。貨幣供給曲線の右方シフトは貨幣需要曲線の右方シフトによって相殺され、利子率の水準は緩和以前とそれほど変らぬ状態で推移するため、金融緩和による景気刺激効果が発揮されることはない。

今期の金融緩和措置が将来においても維持される(将来も金融緩和は続く)と期待されるとどうなるだろうか。利子率の期待値i(1)が下落すると貨幣需要曲線は左方にシフトする。貨幣供給曲線の右方シフトと合わせて考えると、(流動性のワナから脱して)利子率i(0)の下落を生んで景気に対してポジティブな影響を及ぼすことになろう。(c)のβは正の値を取り、以前と比べその値が上昇するならば(1-β)が下落するので(1/i(1)は上昇するため、二つの兼ね合いにもよるが)債券への需要が増加、貨幣需要は減少して貨幣需要曲線は左方にシフトすることになる(βが1よりも大きい値を取る時、急激な貨幣需要の減少を生むだろう。非弾力的な期待を仮定しなければ、このケースの流動性のワナから脱することはより簡単なことなる(あるいは、民間経済主体の期待に働きかける政策を視野に入れることが可能になるわけで政策手段の数が増えると言ってもよい))。民間経済主体に将来も金融が緩和され続けることを期待させて(将来の金融緩和をコミットすることで?)流動性の罠から脱出する。なんだかクルーグマンの主張(流動性の罠の定義は違うが)を髣髴とさせる話ですね(流動性のワナの第一のケース、すなわち貨幣需要曲線がある利子率水準で水平になる場合においては対策は困難である。ただし、利子率期待の非弾力性を仮定する限りにおいてだが)。

罪深きIS-LM

David Laidler(with Roger E. Backhouse)、“What was lost with IS-LM?(pdf)”(Laidlerホームページより)。

IS-LMモデルは現実経済の重要な側面−経済活動は時間を通じて行われる営為であるということ−を捨象してしまったがために、経済学の更なる発展への大きな障害となった。IS-LMによってマクロ経済学の教育を受けた戦後の経済学者は、IS-LMモデルで現実世界を眺めることに慣れきってしまい(静態的なIS-LMのモデル世界と現実世界との区別がつかなくなって)、自分たちが現実の経済世界の実相を見逃していることになかなか気付くことができなかったのである。

the IS-LM model was a comparative-static device, and this meant that a wide range of issues, related to the fact that economic activity happens in time, simply could not find a place within it. Only ideas that seemed relevant to the equilibrium features of the economic system and its comparative-static properties received careful attention from those who used IS-LM, but that was the vast majority of economists working on macroeconomic issues between the 1940s and the 1970s.

責めを負うべきはIS-LMの開発者だけなのか? ケインズの重層的で深遠な思索が縷述された『一般理論』をあまりにも平板なかたちに解釈したヒックスが悪いのか? いや、そうではない。ケインズ自身にも重大な過失が存在した。

In The General Theory・・・He also re-wrote the macroeconomics that had come before, and labelled the result “classical economics”. In the process he presented a theoretical critique of propositions that were entirely static and temporal. In the absence of this distortion of what macroeconomics was like before the General Theory, Keynes’own contribution would have been perceived very differently, and it would have been much more difficult for such early exponents of IS-LM as Harrod (1937) and Hicks (1937) to present this model as capable of capturing the fundamental issues at stake between Keynes and his predecessors.

『一般理論』はケインズの独創的な発想のみによって成り立っているわけではない。20世紀前半期(あるいは戦間期)における経済学者連の研究成果の影響が濃厚に見てとれるのである。消費性向にはWarming、資本の限界効率にはIrving Fisher、流動性選好にはLavington、有効需要にはHawtrey・・・というように、ケインズ独自の概念と考えられているものに対してその先駆者(“古典派”の経済学者)を発見することは容易である。

ケインズは「古典派」に対して徹底的な批判を加えるために『一般理論』を執筆し、まったく新しい経済学の体系(「古典派」をその特殊事例として包含する「一般」理論)を形作ろうと試みたのであり、「古典派」とケインズの間には大きな断絶−「ケインズ革命」という名のパラダイムシフト−が存在する。ということを否定したいわけではない。“古典派”からの強い影響を受けていることは先に見たように確かであるが、“古典派”から受け継がなかった伝統も存在する。ケインズが『一般理論』の中で規定した「古典派」は本来の“古典派”ではなく、一面的な“古典派”(「古典派」)に過ぎなかった。“古典派”を「古典派」と見間違えたこと。ケインズが責を負うべき過ちはここにある。

後世から忘れ去られ、無視されることになった“古典派”のもう1つの側面とは何か。“economic activity happens in time”,“consumption and investment decisions had something to do with the allocation of resources over time”,“economic changes take time to happen”,“expectations are always relevant when maximizing behaviour is analysed”,“economic policy too involves forward-looking decisions”,“attention to important coordination problems, having to do with the allocation of resources over time, that are invisible in a static world”・・・といった点への着目、つまりは現実の経済世界は時間の流れの中において進行するのであり、IS-LMが描く静態的な世界像とは正反対の、常に変化に晒された動態的な世界である、ということへの気付きである。

Some examples will help to make clear just how many ideas were thus rendered inaccessible to a younger generation of economists. Hawtrey・・・had argued that the monetary transmission mechanism over the course of the cycle involved the continual creation and destruction of credit. For him, and for Irving Fisher too,・・・the interest rate set by the banking system was therefore considered to be a critical variable for swings in the price level, and in output too for Hawtrey・・・.Others, notably the Austrian and Swedish followers of Wicksell, but also Dennis Robertson, carried this line of analysis further, and stressed the capacity of interest rate swings to generate variations in output which often involved “forced saving”. The Austrians in particular had argued that, in a world experiencing change, the market mechanisms that existed in a monetary economy were likely to fail in fully coordinating the choices of individual agents, notably with regard to the allocation of resources over time;this because the banking system's activities would interfere with the interest rate's capacity to induce a time-structure of production that was compatible with households’plans for future consumption. Those Swedish economists known as the“Stockholm School” focussed on the processes whereby "ex ante" disequilibria were turned into "ex post" equilibria. They therefore paid careful attention to the importance for macroeconomic behaviour of expectations and their evolution over time.

“古典派”を「古典派」と単純化したケインズも責任の一端は担っている。しかしながら、ケインズが不確実性や期待の役割に言及してるにも関わらず、IS-LMの中にその点を取り込まなかったヒックスの責任はさらに重大である。ヒックスも後々反省しておりますことですし、共同責任は無責任とも言いますし(無責任の意味が違うか;責任が無いじゃなくて責任を取ろうとしない)、どうか許してやってくださいね。

it is argued here that the loss of ideas from the broader inter-war literature on monetary economics and the business cycle, which began with the General Theory itself, and was accentuated by the development of IS-LM, was more important for the subsequent development of macroeconomics than the mislaying of some insights from that book during the transformation of “Keynesian economics” into IS-LM . When all is said and done, IS-LM did sum up a critical and central subset of the ideas expounded in the General Theory. This is why it is legitimate to refer to a Keynesian rather than a Hicksian revolution.

経済学の発展という観点からすると、ケインズが“古典派”を「古典派」と解釈したこと(このことこそが発展のヨリ大きな阻害要因となった)に比較してIS-LMケインズ『一般理論』からmislayした(取りこぼした)ことの過失は些細なことである(IS-LMケインズの歪んだ「古典派」解釈を解釈したものであり、先行する解釈が間違っている以上後続の解釈が誤っていたとしてもその責任は先行する解釈にある)。だからこそ、“古典派”と『一般理論』以降の経済学を分かつことになったパラダイムシフトを「Hicksian revolution」と呼ぶべきではなく「Keynesian revolution」と名付けるべきなのである(“古典派”とそれ以降の経済学の違いの差を生んだのはケインズによる「古典派」解釈にあるため)。レイドラー先生もこうおっしゃっていることですし(レイドラーも冗談がきついな)、ヒックスの罪は是非とも軽くしていただきたいものです。

既得観念としてのIS-LM

引き続きLaidlerの論文より。

Many economists and some philosophers of science share what could legitimately be called Panglossian view of the losses that accompany the move towards more formal models.Kitcher(1993), for example, has argued, in the context of natural science, that although science may drop ideas that cannot be expressed with the required degree of rigor, if the problems are important, scientists will eventually return to them. When they do so, the problems will be analyzed in greater depth than would previously have been possible, and the result is progress.

This view of progress is similar to the one articulated by Krugman(1995) in the context of theories of location and economic development. He argues that economists ignored theories of location other than that of Thünen, because they all relied on forms of increasing returns that they were not able to model formally. Krugman also suggests that they turned their back on the‘high’development theories developed by Rosenstein-Rodan, Hirschman,et al during the 1950s for very similar reasons. In both cases economists chose to confine their work to what could be modeled formally, even though this meant ignoring what were believed to be important aspects of reality, but once they found the techniques that enabled them to deal with increasing returns, some of the insights that they had set aside in order to indulge in formal modeling were regained.

モデル化の過程において現実のある側面が捨象されてしまう(現実が理論に沿うように切り取られてしまう)のは仕方がない面もある。現時点において数学的な取り扱いが困難な事象を前にしてモデル化の試みを放棄することは知的敗北を意味するだけであり、現実世界の単純化が今できる最善の努力を傾注した結果である限りにおいてそのことを批判される筋合いは一切ない。しかしながら、モデルを組み立てる仮定において無視した事実が存在するということ、それゆえ現在手持ちのモデルは現実世界を描写する上であくまで暫定的なもの、不完全なものに過ぎないということを常に留意しておく必要がある。今日捨象せざるを得なかった事象が後年の科学(知識)の発達の結果としてやがては取り扱い可能なものとなる(あるいはヨリ洗練された形で取り扱い可能となる)可能性もなくはなく、捨象した現実(あるいは過去の先達の言説の中に現在のモデルには取り込まれていない重要な視点が存在するということ)に立ち戻りそのことを深く記憶の中に留めておくことは、将来におけるヨリ現実的なモデル構築の糧となり得るからである。経済学説史・経済思想史の役割は、過去の経済学者の研究の成果をあますところなく記憶し相続することで、未来の経済学者が現実社会のヨリ深い理解に到達する(モデルビルドの)手助けをするところにあるといえるのかもしれない。

IS-LMケインズによる歪んだ“古典派”解釈(「古典派」としての“古典派”)の影響により、“古典派”の動態的な側面(「時間」にまつわる思索)を見逃してしまった。静態的・均衡論的なIS-LMの世界観にそぐわない“古典派”経済学者の成果は後年の経済学者達から無視されてしまった。“古典派”経済学者の「古典派」以外の側面が想起(再発見)されるまでには、モデルビルドの技術が充分に発達するまでの非常に長い時間(1970年代頃から活発に)を要する必要があった(IS‐LMモデルが現実の貴重な側面を捨象していることに気付かなかった罰である)。

dominance of IS-LM led to the temporary loss of what had once been commonplace insights about the monetary nature of inflation and about the intrinsically dynamic nature of inflation that stems from the role that expectations play in determining its course.

we have seen that, as modeling strategies developed and the range of techniques available to economists increased, dynamic problems were rediscovered and in due course understood better than would ever have been possible using the methods available to economists such as Hawtrey, Myrdal, Robertson,etc.・・・When at last the importance of time was rediscovered in the 1970s・・・

“古典派”による現実経済の“時間”を巡る考察の成果を無視することによって経済学の発展を遅らせたこと(質問の問い方、議論の仕方に影響を及ぼすことによって“古典派”解釈に偏ったバイアスをかけてしまったことも問題点として挙げられている)がIS‐LMの責任を問われるべき点である。ならまだ罪は軽い。IS‐LMで考えることが当然のことになった結果として(IS-LMが一種の既得観念となった結果として)現実世界に及ばした影響−特に政策立案者への影響−に比べれば。

Because policy problems require attention as and when they arise, it is not always possible to wait for theory to be fully developed before applying it,・・・Even though macroeconomics had largely regained its understanding of money and inflation by the mid-1970s, so that these were not permanent losses of scientific knowledge, that still leaves two decades during which policy-makers used the‘naïve’IS-LM model to guide them, possibly into making some of the mistakes that created the inflation of the 1970s and 1980s.・・・it is arguable that policy makers with intuitions informed by some serious study of Fisher and Hawtrey(or even Ricardo and Thornton), in addition to IS-LM, would have had a better chance of avoiding at least its worst aspects.

FisherやHawtrey、Ricardo、Thorntonの業績を知悉しておれば、1970〜80年代のインフレーションは避けることできた。政策立案者の目がIS-LMによって曇らされていたがために・・・。

現在の日本経済もIS-LMが既得観念として健在である結果として大きな犠牲を蒙っているという。

Consider, for example the monetary problems faced by the Japanese economy in the last decade. it is taken for granted by many commentators that Japan has encountered a “liquidity trap”. This is hardly surprising, because within IS-LM, the interest rate is the only channel through which monetary policy can work, and the liquidity trap・・・is the only financial market factor that can block this channel.・・・The fact・・・that monetary policy was declared impotent there the moment short interest rates began to meet their zero lower bound, suggest that we might here have another example of serious policy consequences flowing from the loss of an idea that didn’t fit into IS-LM

失われた10年」と形容される日本経済の長きに渡る停滞状況を指して、日本経済は“流動性の罠”に陥っているのだと指摘する向きがある。政策当局は、流動性の罠に陥っている以上(短期金利も限りなくゼロに近い状況にあるし)金融政策としては最早打つ手は存在しないとのたまっている。「流動性の罠」という発想、金融政策の波及メカニズムを金利変動だけにしか見出さない態度。IS-LMという既得観念の虜になっている何よりの証拠である、とLaidlerは指摘する。Hawtreyが何を語っていたかを思い出せば解決策はすぐに見つかる。

students of Hawtrey would know that a “credit deadlock”-a situation in which money creation is inhibited by the unwillingness of pessimistic firms to borrow from the banks at any interest rate-can also render monetary policy ineffective. They would also know, however,that sufficiently aggressive open market operations or money financed budget deficits could be used to break such a deadlock, and that if,as Hawtrey believed(and as Nelson reminds us monetarists still believe)money creation can have effects through a much wider range of channels than market interest rates, this might be enough to revive a depressed economy.

現在の日本経済は、悲観的な期待を抱く企業がどんなに低い貸出金利を提示されても銀行から借り入れをしようとしないために信用創造が低迷する(ホートリーが言うところの)「信用梗塞(credit deadlock)」の状況に陥っている。この状況下においては、金融政策の効果が弱まることは確かである。しかしながら、アグレッシブな公開市場操作に乗り出すことによって梗塞状況から脱することは可能であって、金融政策は市場金利以外のチャネルを通じて景気刺激効果を発することができる。万策尽きたと言っていられるのはIS-LMという非現実的な世界にしがみついている場合だけである(ホートリーについては田中先生のブログにおけるFellow Travelerさんのコメントも参照のこと)。

IS-LMを相対化する勇気を持て、ということですね。

諸々の「ケインズ革命」

根井雅弘著『「ケインズ革命」の群像』を読む。

1936年以前に経済学者として生をうけていたことは幸いであった―然り。しかもあまりにも以前に生まれていなかったことが!

暁に生きてあるは幸いなり

されどその身若くありしは至福なるべし

『一般理論』は、南海島民の孤立した種族を最初に襲ってこれをほとんど全滅させた疫病のごとき思いがけない猛威をもって、年齢35歳以下のたいていの経済学者をとらえた。50歳以上の経済学者は、結局、その病気にまったく免疫であった。時がたつにつれ、その中間にある経済学者の大部分も、しばしばそうとは知らずして、あるいはそうとは認めようとはせずに、その熱に感染しはじめた。(p12)

サミュエルソンケインズ『一般理論』に接した若かりし日の衝撃を熱っぽく語った有名な言葉(とある評論家氏によれば、時代が停止したような紋切り型の表現であり、あまりに陳腐な修辞であるそうだ(「南海島民の〜経済学者をとらえた」の件を指して)。宇沢弘文教授の言葉と勘違いなさっているようで、いらぬ批判をうけた宇沢教授はこの怒りの矛先を一体どこに向けたらよいのでしょうか。宇沢『経済学の考え方』と同時に取り上げられている間宮陽介『ケインズハイエク』は「新書にしては一見とっつきが悪いが、文章の密度にムラがなく、著者の意気込みも十分に読み取れる」(p85)と好評価。宇沢本は間宮本と対照的とのこと)。

「正統派(古典派)経済学」への徹底的・根源的な批判を意図したケインズ『一般理論』は若き経済学徒から(サミュエルソンに限らず)熱狂的な支持をもって迎えられた。大恐慌という現実の苦境を目の前にして何らの解決策を提示しえない正統派に対する鬱憤を募らせていた経済学者の卵たちにとって、不況の発生メカニズムの説明とそれへの処方箋を用意しているかに見えたケインズ『一般理論』は一つの福音のように感じられたからである。

十人十色と言いますが(10人の経済学者が一堂に会して経済問題について議論すると11個の処方箋が提示されるようですので十人十一色がヨリ正確でしょうか。経済学にまつわる迷言についてはhttp://www.econ.kobe-u.ac.jp/~koba/econ/ejoke.htmも参照のこと)、ケインズ解釈も人によりけり多種多様です。時代や場所が異なれば一層そうなります。各国ないしは各地域におけるケインズ解釈の具体的な有り様(加えて簡潔に定式化(体系化)されたケインズ像への反発やケインズその人に対する反論も含む)を辿っていく。これが本書の主旨となります。主な舞台はアメリカ(ハーバード)とイギリス(LSE(ロンドン)、ケンブリッジ)。

サミュエルソンが乗数分析(貯蓄・投資による所得決定理論)や新古典派総合をケインズの真髄として強調すれば、J.ロビンソンが雇用の質を(「経済学の第二の危機」)、ガルブレイスが需要の質(「依存効果」、「社会的バランス」の欠如等)を問題にする(スウィージーシュンペーターもでてきます。「理論と実践は区別すべきとの信念を持つ」シュンペーターと「時論を書き続けることによって理論を研磨した(理論と実践が手を携えている)」ケインズとの相容れない性格(体質)等)(アメリカ)。徹底した新古典派経済学の教育を受けたカルドアのケインズ派への転向(分配の限界生産力説からケインズ乗数理論を基礎とする分配理論へ)があれば(ロビンズの後年における自己批判も)、ハイエクは集計量で経済分析を行う道を切り開いたケインズを批判する(LSE)。ケインズピグーの対立(公共投資の割り当てに関する考えの相違・不確実性の見方の違い等)、『貨幣論』を執筆するにあたって大きな影響を受けたロバートソンからの離別(利子論を巡る対立(貸付資金説(フロー)VS流動性選好説(ストック)))、そしてヒックスによるIS-LM図とパシネッティ・シャックルによる批判(ヒックスはLSEに含めるべきか)・・・(ケンブリッジ)。『一般理論』の同時発見者としてのカレツキー(ヒックスの伸縮価格/固定価格市場という市場類型認識はカレツキーの「需要によって決定される価格」/「費用によって決定される価格」の区別に触発されたものとのこと)、ケインズの弟子としてのJ.ロビンソン・カーン・ハロッドについても触れられております。

興味深い記述を一つ二つ引用。

新古典派総合は、完全雇用の達成を目標としただけではない。それは、さらに、完全雇用を達成した後でも、緩和的金融政策によって投資を拡大するとともに、緊縮的財政政策によってインフレーションを抑制しながら経済成長率を高めていくことをねらっていた。・・・(以下はサミュエルソンの言葉;引用者)「新古典派総合の結果の一つは、現代社会は、拡張的貨幣政策をとりながら、他方ではディマンド・プル・インフレーションをさまたげるために十分厳格な財政政策を採用することによって、資本の深化を導きだし、これにより完全雇用点における成長率を高めうるという楽観的な見解である。要するに、これらの施策を結合させれば、完全雇用所得のなかの消費部分を引き下げながら、しかも完全雇用自体をおびやかさないことも可能であろう」(p28)

・・・留意しなければならないのは、ケインズによる客観的経済法則の発見という場合、それが経済全体のスケールで集計された経済数量・・・の間の因果関係の発見だということである。・・・ミクロの経済主体の行動が多様であるとしても、そうした個々の経済主体の行動の合成量は単一の客観的な数量である。それは個々の経済主体の意思の産物であるが、そうした個々の意思から独立した数量である。ケインズの発見した客観的経済法則とは、こうした集計量の間の法則なのである。(p80)

ヒックスIS-LMに対するシャックルの批判(不確実性の無視)について(そしてこの批判を念頭においての「IS-LMは過去の説明のためにのみ限定して使うべきだ」というヒックス発言)は後ほど書く予定。

IS-LMの使用法

前回続きIS-LMへの批判について。

根井雅弘著『「ケインズ革命」の群像』ではIS-LMに対する2つの批判(IS-LMケインズの重要な側面を捨象している点を問題視するもの)が取り上げられている。第一はパシネッティによるもので、IS-LMでは変数間の関係が相互依存的なものとして捉えられており、変数間の因果関係の吟味といった(ケインズが本来有していたはずの)視角が忘却されてしまっているという批判である。IS-LMでは所得(Y)と利子率(i)がIS曲線とLM曲線が接する点で同時決定される。変数間の依存関係は視野に入っているけれども因果関係ははっきりしない。本来ケインズ流動性選好が原因となって所得や雇用量が規定されるという明確な因果の連鎖(「原因から結果へと因果順序がはっきりしている型」としてのケインズ体系)を想定していたはずである。つまりは、流動性選好によって利子率が決定される→資本の限界効率と利子率比較により設備投資量が決定される→総需要量/雇用量の決定、というように。

ケインズは、限界主義的経済理論家に広くみられる、『すべてのものは他のすべてのものに依存している』とする姿勢に反対し、どの変数同士が、連立方程式体系で表わすのが最も適切であると判断されるほど互いに十分緊密に相互依存しているか、そして、互いに相互依存関係にある二つの変数の間でも、どちらの方向の因果関係が圧倒的に強いか(そしてどちらの方向の因果関係がずっと弱いか)ということの識別に基づいて、どの一方方向の因果関係だけを定式化することが最も適切であるかということを確定することが、経済理論家としての自分の任務である、と考えるのである」(パシネッティ『経済成長と所得分配』、p50)(根井、p140からの孫引き)

第二の批判はシャックルによるものである。「失業の理論は、現実の人間の状況につきまとう不確実な期待や冒険的な意思決定(シャックルは、これを‘enterprise’と呼ぶ)を取り扱わなければならないという意味で、必然的に無秩序の理論となる」のであり、「『一般理論』の核心は、それが「無秩序の経済学」(Economics of Disorder)を理論化したもの」であるはずにもかかわらず、IS-LMでは「‘enterprise’が占めるべき正当な場所が全くない」(根井、p136)。「‘enterprise’とはリスクであり、リスクとは無知なのに対して、均衡とは無知の事実上の追放」を意味するわけで、均衡という枠組みに基礎付けられたIS-LMは「無知の事実上の追放」の上に成り立っていることになる。簡単に言えば将来の不確実性(とそれ故の期待の不確定性)を無視したIS-LMの罪を咎めているわけです。

第二の批判に関して(シャックルに直接返答するというかたちをとっているわけではないが)ヒックスは面白いことを語っている。

The relation which is expressed in the IS curve is a flow relation, which・・・must refer to a period, such as the year・・・. But the relation expressed in the LM curve is, or should be, a stock relation, a balance-sheet relation. It must therefore refer to a point of time, not to a period. How are the two to be fitted together? (“IS-LM−an Explanation”、p328)   

IS関係は貯蓄-投資の均等化というフロー均衡(関係)を記述しており、LM関係は貨幣(債券)需給の均等化というストック均衡(関係)を記述している。フロー(期間)とストック(時点)という異なる時間の次元に属しているものを同時に取り扱うためにはどうしたらよいだろうか? 一つの解決策はLM関係をIS関係に適合させる、つまりは期間にわたる(あるいは期間を通じた)ストック均衡(ある一時点においてストック均衡が実現されているというにとどまらずフロー均衡(I=S)が実現されている期間の間においても同時にストック均衡が実現されている(ストック均衡が維持されている maintenance of stock equilibrium))という概念を持ち込むことである。

わたくしは前に、時間をつうじての均衡はストック均衡の持続を必要とすると述べた。これはたんに期首と期末においてストック均衡があるばかりでなく、またその期の進行中も引きつづきストック均衡があるという意味に解釈してよいであろう。たとえばわれわれが「長」期を「短」期の系列と考えるとき、この「長」期は、それに含まれるそれぞれの「短」期が時間をつうじての均衡にある場合のみ、同時に時間をつうじての均衡にあるのである。予想は相互に抵触しないものと考えられているから、ある「短」期とつぎのそれとのつなぎ目で予想の改訂が行われることはない。体系はこれらのつなぎ目のどれにおいてもストック均衡にあり、またこれらの相抵触しない予想に関してもストック均衡にある。これは予想―その「長」期のなかで生じてくる需要に関する―が正しい場合のみ可能である。時間をつうじての均衡は、このようにその期間内の予想の、現実との一致を必要条件としており、任意であってよいのは一そう遠い将来に関する予想だけである。(『資本と成長?』、p166〜167)

時間(期間)を通じてのストック均衡が維持されるのは予想(期待)と現実の食い違い(期待の錯誤)がない場合のみである。同じ時間軸上でISとLMがそれぞれ均衡にあると想定するためには、期待が確実に実現するという非現実的な仮定を必要とする。そもそもLiquidity(流動性;LMの“L”)の存在理由は将来の不確実性にあるのではないか。将来に関する期待が不確実であり物事が期待通りにすすまない(期待が現実に裏切られる)からこそ流動性保有されるのではなかったか。IS-LMを厳密な形で定式化する(時間の次元を揃える)こと(時間を通じてのストック均衡の維持を想定すること)は将来の不確実性を無視することと同値なのである。

ヒックスのこの議論はシャックルの批判に対する完全な敗北を認めることになるのだろうか。将来の不確実性を取り扱えない(取り扱おうとしない)IS-LMには何らの価値も存在しないということになるのだろうか。答えは使用法に依存してYesともNoともなりうる。将来を予測するためではなく過去を説明するためであればIS-LMは依然として有用である。使い方さえ間違えなければ(将来予測のために利用するという欲さえ持たなければ)、IS-LMは今後も十分価値あるモデルとして生き続けていくことができる。

When one turns to questions of policy, looking towards the future instead of the past, the use of equilibrium methods is still more suspect. For one cannot prescribe policy without considering at least the possibility that policy may be changed. There can be no change of policy if everything is to go on as expected-if the economy is to remain in what (however approximately) may be regarded as its existing equilibrium. It may be hoped that, after the change in policy, the economy will somehow, at some time in the future, settle into what may be regarded, in the same sense, as a new equilibrium; but there must necessarily be a stage before that equilibrium is reached.(“IS-LM〜”、p331)

政策変更がどういった影響を及ぼすのかということを考察することは将来の経済状況を予測することである。政策の変更は将来の経済環境に対する経済主体の認識を変化させ、期待の有り様を変容させる(結果として政策実施前後で行動も変化する)。新たな期待形成の元で新しい均衡がやがては実現するけれども、政策変更前の古い均衡からその新しい均衡に到達するまでには調整過程を要する。ある長さを持った期間(period)において均衡が実現されると考えるIS-LMではその調整過程を説明できない。時間を通じたストック均衡(LM均衡)が維持されるためにはある期間(period)において期待の改訂が行われないと想定する必要があり、IS-LMを用いて政策変更の将来効果を説明することは政策変更が経済主体の期待形成に何らの影響を及ぼさないと見なすことを意味することになる。モデル形成(現実の抽象化)の過程で現実のある側面を捨象することは致し方ない面があるけれども、政策変更による期待の変容あるいは将来の不確実性に基づく期待形成の改訂の可能性を無視することが妥当な抽象化といえるかどうか。将来の不確実性(政策変更も含めて)に直面している現実経済において各経済主体は将来に対する期待を形成し、それに基づいて意思決定を行っているわけであり、現実経済の今後の展開を予測する上で期待に基づく意思決定(加えて期待形成の変更の可能性)を無視すること(未知の将来をモデル内に組み込まないこと)は致命的な欠陥と言えるのではないだろうか。

期待の改訂が行われるのは将来が未知であり、(事前に)何が起こるか完全には予測できないからである。これから起こることを予測するためには将来環境(に関する認識)の変化による期待の改訂の可能性を無視することはできないないが、すでに起こってしまったことを説明するためには期待改訂の可能性を考慮する必要はない。予測すべき将来が過去のものとなっておりすでに意思決定は済んでいるからである。既に起こってしまったことに関して期待の改訂が行われるはずはない。

We have, then, facts before us; we know or can find out what・・・did actually happen in some past year. In order to explain what happened, we must confront these facts with what we think would have happened if something (some alleged cause) had been different. About that, since it did not happen, we can have no factual information; we can only deduce it with the aid of a thory, or model. And since the theory is to tell us what would have happened, the variables in the model must be determined. And that would seem to mean that the model, in some sense, must be in equilibrium.(同上、p327)

IS-LMの交点(均衡所得/利子率)は過去(のある年)に実際に起こったことを示している。IS曲線の中でLM曲線と交差する点のみが実際に起こったことであり、LM曲線との交点以外のIS曲線上の点は利子率が現実とは違う水準にあったならばどうなっていただろうかということを理論的に推測したものである。現実には起こっていないのであるから、均衡利子率水準以外のIS曲線上の点が(それぞれの利子率水準における)フロー均衡を正確に描写しているかどうかは知り得ないけれども、あたかも均衡にあったかのように取り扱うとしても過去を説明するという目的からすれば許される単純化であろう(It is sufficient to treat the economy, as it actually was in the year question, as if it were in equilibrium.・・・it is permissible to regard the departures from equilibrium, which we admit to have existed, as being random.)。

過去を説明するため、過去において実際とは違う状況であったらどうなっていただろうかという思考実験のため、にその使用を限定するならばIS-LMもまだまだ捨てたものではないということです。将来の不確実性を取り扱っていないという批判はIS-LMに対する過剰な期待の裏返しともいえるもので、IS-LMは過去(加えて可能性としての過去)を描写するものと禁欲的に考えればよいのではないでしょうか。

We are to confine attention to the problem of explaining the past, a less exacting application than prediction of what will happen or prescription of what should happen, but surely one that comes first. If we are unable to explain the past, what right have to attempt to predict the future? I find that concentration on explanation of the past is quite illuminating.(同上、p327)

過去を説明することしかできないからといって落胆する必要はない。過去を説明することができずにどうして将来を予測することなどできようものか(将来を予測しようなどと大それたことを言えるものか)。経済のメカニズムについての知識を蓄積し、もって将来予測の手助けとするためにも過去を説明する手段(モデル)の存在は大変貴重なものなのである。

『資本と成長』のリンク先を探してたら見つけた(『資本と成長』はAmazonでもbk1でも紀伊國屋でも「現在取り扱いしておりません」だと)。相変わらず勉強になるな〜。

http://www.ichigobbs.net/cgi/15bbs/economy/0040/1-70

最後のIS-LM論

IS-LM分析の生みの親として名高い(悪名高い?)ヒックス。彼がIS-LMを主題として論じたのは生涯で4回(私が知っている範囲内では)と意外と少ない。“Mr. Keynes and the Classics”/“The Classics again”(この二つの論文はともに『貨幣理論』(Critical Essays in Monetary Theory)に所収)、『景気循環論』第11・12章、そして“IS-LM -an Explanation(Journal of Post Keynesian Economics (Winter 1980-1))”。今回取り上げるのはヒックスによる最後のIS-LM論、“IS-LM -an Explanation”です。

The IS-LM diagram, which is widely, though not universally, accepted as a convenient synopsis of Keynesian theory, is a thing for which I cannot deny that I have some responsibility.・・・I have, however, not concealed that, as time has gone on, I have myself become dissatisfied with it.‘That diagram’, I said in 1975, ‘is now much less popular with me than I think it still is with many other people’.・・・But I have not explained the reasons for this change of opinion, of or attitude. Here I shall try to do so.(p318;論文集でのページ表記)         

IS-LMケインズ『一般理論』の本質を簡潔に要約したものとして広く受け入れられた(or現在でも受け入れられている)けれども、時が経つにつれますます私(Hicks)はIS-LMに不満足な感情を抱くようになってきた。他の人間にとっちゃ今でもIS-LMは(マクロ)経済問題を語る際には欠かせない貴重な道具立ての一つなんだろうけど・・・。これまでも機会を見つけてはあれこれIS-LMに対して文句をつけてきたけれども、今日はなぜ私がIS-LMに愛想を尽かすに至ったのかその理由を詳らかにしたいとこう考えるわけです。前置きはこれくらいにして早速始めましょうか。

『価値と資本』とケインズ『一般理論』(とそれを解釈したIS-LM)の違いはどこにあるか。IS-LM批判という文脈からは一見無関係に思われるこの問題設定のもとでヒックスはIS-LMの再解釈(再構築)(IS-LMワルラスモデルの違いを乗り越えようとする試み、とした方が適用か)に乗り出す。二者の経済モデルの間には二つの明らかな違いが存在する。まず一つ目は、前者は価格が伸縮的(flexprice model)であり(『価値と資本』は完全競争の仮定を採用しており、そのため完全雇用が実現される)、後者は価格が固定的(fixprice model)である(名目賃金が外生的に決定されており、非自発的失業が存在する)という点である(ヒックスにとっては昔(1936年当時)も今もこの違いはそれほど重大なものではないとのこと。“I may as well note・・・that I do not think it matters much. I did not think, even in 1936, that it mattered much.”)。二つ目の違い(fundamental difference)は、前者が超短期(ultara-short-period;「週」)のモデルであり、後者が短期(short-period)のモデルであるという点、つまりはモデルが扱う時間の長さ(length of the period)の相違に求めることができる(こちらの違いについてはまた別の機会に論じます)。

二者のモデルの違いをヨリ具体的に考察するために、A、B、C、X(ニュメレール)の4つの財が存在する経済を考えることにしよう(『価値と資本』第4・5章のモデル−交換経済の一般均衡モデル−の論理に則って考える)。

価格p(A)、p(B)、p(C)はニュメレールp(X)=1として評価づけられたものであり、財ABCの需要供給関数はこの3つの価格の関数である(例えばS(A)=S(p(A)、p(B)、p(C));予算制約下における効用最大化が背後に存在)。価格は3財の市場が均衡する水準(S(A)=D(A)、S(B)=D(B)、S(C)=D(C))に決定される(p(A)はS(A)=D(A)となる水準に調整される。以下同じ)。非ニュメレール財(ABC)の売りまたは買いはニュメレール財(X)の買いまたは売りを伴うので、

Xの需要−Xの供給=他の諸財の販売からの収入−他の諸財の購入への支出=〔p(A)S(A)+p(B)S(B)+p(C)S(C)〕−〔p(A)D(A)+p(B)D(B)+p(C)D(C)〕

となる(詳しくは『価値と資本?』p83〜86(私の手元にあるのは岩波現代叢書のバージョンです)を参照)。価格調整の結果として非ニュメレール財市場は需給が均衡しているのでXの超過需要は常にゼロとなる。よって、独立な方程式(非ニュメレール財の需給均等式)と未知数(非ニュメレール財の価格)の数は一致(3つ)しており解は確定する。

ここまでの説明は価格が伸縮的であるワルラス的な経済世界(flexprice model)を前提したものである。価格が固定的であると仮定した時、一体ワルラスモデルはどのような変化を被ることになるだろうか。

p(A)が固定的である時(p(A)=p*(A))、もはやD(A)=S(A)が満たされる必然性はない。A財の価格がp*(A)で固定されている時、D(A)>S(A)あるいはD(A)<S(A)となり実際に取引される量はヨリ小さい数量である。p*(A)水準でD’(A)<S(A)となる、つまりは超過供給が存在する時には実際の取引量は需要量D’(A)となる。Xの超過需要方程式においてS(A)、D(A)に実際に取引された量D’(A)を代入すると(S(A)=D(A)=D’(A))、p*(A){S(A)-D(A)}=0となる。よって、この経済体系において伸縮的な価格p(B)、p(C)は以下の3つの方程式の解として求めることができる。

S(B)=D(B)

S(C)=D(C)

p(B){S(B)−D(B)}+p(C){S(C)−D(C)}=0

独立な方程式は二つ、未知数も二つ(p(B)、p(C)はそれぞれの財市場の需給を均衡させるように調節される)。よって解の存在が保証される。めでたしめでたし。・・・とするにはまだ不十分である。未知数がもう一つ存在するからである。未知数=D’(A)である。

We have so far been making demands and supplies depend only on prices,・・・But as soon as a fixprice market is introduced, it ceases to be acceptable. It must be supposed that the demands and supplies for B and C will be affected by what happens in the market for A.That can no longer be represented by the price, so it must be represented by the quantity sold.・・・So demands and supplies for B and C will be function of p(B), p(C) and D’(A).(p322)

各財市場の需給状況は他市場の変数の変化から影響を受ける。p(B)の価格上昇はB財市場だけでなくA財市場にもC財市場にも影響を及ぼす。それゆえ、伸縮価格経済であるワルラスモデルにおいてS(A)=S(p(A)、p(B)、p(C))となるのである。ワルラスが経済学史上にその名を残すことになったのは、経済が全体として相互依存の関係にあることを発見し、それを定式化した功績からであることは改めていうまでもないだろう。価格が固定的な財が考慮に入れられるや変数はp(B)、p(C)、D’(A)となり、各財の需給関数は例えばS(B or C)=S(p(B)、p(C)、D’(A))というように、価格のみならず数量の関数ともなる(D’(A)はp(B)、p(C)の関数)。
本経済体系は、

D’(A)=D(p(B)、p(C))

S(B)=D(B)

S(C)=D(C)

p(B){S(B)−D(B)}+p(C){S(C)−D(C)}=0

の4つの方程式(独立な方程式は3つ)によって定式化されることになる。未知数はp(B)、p(C)、D’(A)の3つなので解は確定する。

欲張ってもう一つ固定価格の財を導入すると(p(B)=p*(B))、未知数はD’(A)、D’(B)、p(C)の3つとなる(p(C)はC財市場の需給を均衡させる水準に決定される;AB両財市場で超過供給が存在する時)。任意のp(C)水準において(擬制的に固定させると)、D’(A)はD’(B)の、D’(B)はD’(A)の関数となり、縦軸にD’(A)を、横軸にD’(B)をとった二次元の図上に傾きの異なる右上がりの二つの曲線D’(A)=D’(D’(B))とD’(B)=D’(D’(A))が描かれることになる(『価値と資本』p97やp101の図の縦軸と横軸の表記をともに価格から数量に変える)。二曲線の接するところで経済は全体として均衡に至る。

二つの固定価格市場と一つの伸縮価格市場(ニュメレール財としてもう一つ)。このモデルは実はケインズのモデル(IS−LM+労働市場)を定式化したものと読み替えることが可能である。IS−LMは最終財市場、債券市場、貨幣市場の3つの財市場から構成されており、これに労働市場を加えると全部で財市場は4つになる。最終財をA財市場、労働市場をB財市場、債券市場をC財市場、貨幣市場をX財市場と考えれば、・・・面白い展開である。最終財需要(有効需要)は労働需要量に依存し、労働需要量は最終財需要に依存することになる・・・。

さて。問題はなぜ最終財(A財)の価格と名目賃金(B財の価格)が固定的となるか、である。一応ヒックスはその答えを持っている(最終財価格が固定的になる理由についてはこちらに簡単な説明が。また、伸縮的過ぎる賃金変化は社会の公正観念に合致しないため容認されない(『ケインズ経済学の危機』第3章などを参照))。固定価格市場と伸縮価格市場(債券市場はヒックスの言葉では「組織化された伸縮価格市場」である)をともに含みこんだこの再定式化されたIS−LM(+労働市場)は、単にIS−LMをワルラス一般均衡モデルによって基礎付けたというにとどまらず、ヒックスの市場構造認識(固定価格/伸縮価格)を十全に汲み取ったモデルであるとも言いうるわけである。