アダム・ポーゼンの翻意?
●金融市場異論百出, “デフレ対策は手ぬるいと日銀攻撃 かつての批判急先鋒の“懺悔””(ダイヤモンド・オンライン, 第91回, 2009年08月06日)
某氏のmixi日記経由で知る(本エントリーのタイトルも同氏から拝借)。
悲しいかな、私は会員登録してないので続きは見れないのだけれども、上の記事で取り上げられている「7月7日の英議会財務委員会でのアダム・ポーゼン証言」は以下で全文を読むことができる。
●Adam Posen, “Questionnaire in advance of Treasury Committee hearing(pdf)”(July 7, 2009)
ダイヤモンド・オンラインの記事で話題にあがっているのは上の証言中の「D. MONETARY AND ECONOMIC POLICY」以下、特に10番目の質問への返答の箇所だろうと推察される(ページ数でいえばpp.8〜9)。以下、その部分をちょっと訳してみようと思う*1(自分なりに読みやすいように手を加えている箇所もあります)。誤訳等のご指摘があれば大歓迎です。
質問 10.現在イギリスが直面している経済問題に対処するにあたり、近年の日本経済の経験からどういった教訓を学ぶことができるとお思いですか?
ポーゼン;まず第1の教訓は、日本経済は90年代において「失われた10年」を経験する必要などなかったということです。現在イギリス政府とイングランド銀行が実施している政策は正しい方向を向いているといえます。マクロ経済の苦境に対処するために積極的なマクロ経済政策を実施すること(Policy activism)は正しい反応です。日本経済において(現在イギリスの政策当局によって実施されているような)まっとうな財政、金融政策が実施されていれば、また政策当局が銀行のバランスシート問題に真摯に取り組んでいれば、日本経済は「失われた10年」に陥ることなく1995年の時点で回復に向かっていたであろうと私は強く確信しています。また、1995年時点における回復の可能性という機会を逃したとしても、政策当局が銀行のバランスシート問題に真摯に取り組んでいれば、また日銀による性急な金融引き締めがなければ―この性急な金融引き締めは将来における金融政策のスタンスに関する不確実性を高める効果を持っていました―、日本経済は1998年の時点において依然として回復に向かうことができたであろうと強く確信しています。日本経済はやっと2002年になって景気回復に向かうことになりますが、それは日本政府と日銀がまっとうな政策対応をとったからです。要するに、近年の日本経済の経験から学ぶことのできる第1の教訓は、マクロ経済の苦境に対して積極的なマクロ経済政策で対処すること(macroeconomic policy activism)は、それ自体に固有のコストを伴うものであるかもしれませんが、正しい方向を向いた対応であるということです。
第2の教訓は、マネー*2を総需要を刺激するために使用すべきかあるいは銀行の自己資本強化のために使用すべきかという論点に関するものです。日本経済の経験を鳥瞰してみると、日本政府が銀行のバランスシート問題(=不良債権処理問題)の解決に二の足を踏んだことが1990年代を通じた日本経済の低迷の重要な理由の一つとなっていることが明らかとなります。日本政府はバブル崩壊後に住専問題の解決に乗り出しましたが、その過程では公的資金が投入されることになりました―その規模は十分なものではなかったかもしれないが―。日本政府は1997〜1998年間においても金融機関の破綻処理の過程で同様に公的資金の投入を行いました。柳沢伯夫金融担当大臣の指揮の下1999年に実施された銀行の自己資本強化策は政策の方向性としては正しい方向を向いてはいましたが、公的資金注入による自己資本強化を図りながらも資産査定の厳格化には踏み込んでいないという意味で失敗でした。市場やIMFの検査官が評価する不良債権額と日本政府が公表する不良債権額とが一致したのは2002年に実施された「金融再生プログラム」に基づいて銀行部門の資産査定が厳格化された後になってのことでした。イギリスは銀行部門の自己資本強化と市場実勢を反映したバランスシート評価という点ではアメリカやユーロ圏各国の大半よりも先んじているように思えます。
第3の教訓は、日本経済が経験してきたところから何度も繰り返し明らかにされてきたことですが、財政刺激策は有効であるということです。ただし実施される限りにおいてですが。財政刺激策は1以上の乗数効果を有しています。たとえ無駄に見える支出―1日に10台しか車の通らない辺鄙な田舎*3の橋の建設プロジェクトのような―であったとしても財政刺激策は依然としてプラスの乗数効果を有しています。総需要を喚起するために政府予算から無駄なプロジェクトに向けてお金を回すというのは長期的な観点から見るとあまり望ましい考えではないように思われるかもしれませんし、他の事情を一定とすると、長期的にも便益を生み出すような対象―例えばインフラ投資が妥当するかもしれません―に向けて政府予算を費やすべきだと思われることでしょう。政府支出の増額あるいは減税は、短期における成長を買い取ることを可能とする手段であり、また(政府が財政出動に乗り出さないケース以下の水準に)失業の発生を抑えることを可能とする手段です。不況期における財政刺激策というのは、景気循環の全過程を通じた経済成長の安定化を実現するために将来所得から借り入れることを意味しているのです*4。
しかしながら、ここで重要なポイントは、一時的な政府支出や減税は持続可能な成長につながらない、つまりは持続可能な成長を下支えするためには政府支出や減税は継続的に実施される必要があるということです。このことは2つのことを意味しています。まず第1は、日本経済の例が示しているように、成熟した経済において労働力の13%もの人々を(財政出動を継続することなしに)建設業部門に止めておくことはできないということです。また建設業部門の雇用を維持するために財政出動を継続することはいい考えだとも思えません。第2に、そしてヨリ重要なポイントなのですが、財政刺激策を引き揚げる時点において銀行のバランスシート問題が解決されていないようであれば、財政刺激策の引き揚げによる総需要の落ち込みを相殺するかたちで民間需要が盛り上がってくることはないということです*5。この点は1997年ならびに1999年〜2000年の日本経済が例示しているところでもあります。イギリスはアメリカやユーロ圏の各国と同様にこの点に関して時間的猶予はあまり残されていないといえます*6。第4の教訓は、金融政策とデフレーションの問題に関するものです。日本の経験から明らかになる顕著な事実の一つは、日本が経験したデフレーションは、大変に惰性的(inertial)であると同時に硬直的(sticky)な傾向を示したということです。日本経済はインフレ率が年率換算で見て約−1%の水準―この点はどの物価指数を見るかにもよるのですが―にまで落ち込むデフレーションを経験することになりましたが、重要な点はデフレーションがさらに加速することはなかったという点です。日本経済の低迷が続いても、インフレ率は−2%や−4%の水準―GDPギャップに基づく大ざっぱなフィリップス曲線(インフレの加速を予測することにかけては大変あてはまりがよかったのですが)が予測するところによればインフレ率が−2%や−4%にまで下落してもおかしくはなかったのですが―にまで下落することはなかったのです。
この事実はいくつかのインプリケーションを有しています。第1のインプリケーションは、金融政策はデフレーションを即座には解決しなかったということです*7。第2のインプリケーションは、デフレーションは有害ではあったけれども我々が心配していたほど破壊的なものではなかったということです。そして第3のインプリケーションは、我々はデフレーションというものをまだよく理解していないということです。どのような標準的なマクロモデルによっても、この事実(=デフレーションの惰性性、硬直性)を導くことは困難なことでしょう。
以上の事実が金融政策に対して示すところのインプリケーションは、金融政策を運営するにあたって我々は幾分か謙虚になるべきだということです。イングランド銀行は眼前にある経済問題に対処するにあたって正しくも量的緩和政策に乗り出しましたが、しかしながら、以下のような極端に単純化されたマネタリズムの主張からは一歩距離を置くべきだと思います。曰く「お金をこんだけたくさん刷ってるんだからそのうちインフレーションが起こるだろうよ」、曰く「量的緩和を○○の水準まで進めたら*8、××という結果になるだろう*9」。日本の経験を振り返れば、量的緩和政策は景気刺激的という意味で正しい方向を向いた政策ではありましたが、高インフレの発生につながらなかったばかりか、(極端に単純化されたマネタリストの主張するところとは違って)その効果は予測可能なものでもなく、また思ったほど大きな短期的効果も有さなかったということが明らかになります。
特定の個別市場の問題を解決するために打ち出された非伝統的な金融政策(Unconventional monetary policy)は、1990年代後半の日銀のケースであれ今日の各国の中央銀行のケースであれ、こういった特定市場の機能不全を解決するにあたっては大変な成功を収めてきたと思います。しかしながら、そのような非伝統的な金融政策が有するマクロ経済的な便益というのは、マクロ経済全体を刺激する(あるいは総需要を刺激する)という点を通じてというよりも特定の個別市場の機能不全を是正するという点を通じて表れてきていると思います。
不良債権問題を重視している点や量的緩和政策を巡る議論に関しては意見が分かれるだろうけども、ただ一つだけやってはいけない誤読は、ポーゼン証言を「ポーゼンは90年代における日銀の政策は絶対的に正しかったという意見に転向した」と解釈するような読み方だろう(ダイヤモンド・オンラインの記事は全文読んでないんでダイヤモンド・オンラインの記事に関する判断は差し控えるけども)。というのも、「第1の教訓」を読めば明らかなように、ポーゼンは積極的なマクロ経済政策の必要性を訴えており(日本はこの点不十分だったと指摘している)、また日銀による性急な金融引き締め(特に98年のゼロ金利解除あるいは金融緩和の遅れ)を批判してもいるのだから。ポーゼン証言から「日銀はもっと引き締め気味でも良かった」とかいう結論はもちろん出てこないし、さらには「日銀が採用したような量的緩和政策で十分」という結論も必然的に導かれるわけではない。ポーゼンがこの点どのように考えているかは彼の議論を詳細に追っているわけではないので知らないけれど*10、量的緩和がデフレを退治するにあたって不十分だった理由を掘り下げていってクルーグマン「流動性の罠」論文的な結論(=将来への金融緩和に対するコミットメントを欠いた量的緩和政策の効果の限定性)に行き着く可能性もあるのだから。さらに注意を要するのは、金融政策を運営するにあたってもう少し謙虚にならないといけないと主張している箇所は、金融政策はデフレを退治するにあたって無効であるなんてことは言ってなくて*11極端に単純化されたマネタリズム的立場を批判しているに過ぎない、という点だろう。
個人的に判断すると以上のポーゼン証言から「懺悔」という感じは受けないのだけれども、皆様はどのように感じられるだろうか?
*1:Adam S. Posen, “Seven Broad Lessons for the United States from Japan’s Lost Decade(pdf)”は本証言と補完的な内容をなしている。参考までに。
*2:訳者注;おそらく税金のこと
*3:訳者注;ポーゼンは「北海道」と明示してるけども
*4:訳者注;「将来所得からの借り入れ」というのはたぶん以下のようなことを意味しているのだろう。景気刺激のために無駄な支出先にお金を費やすことは長期的な経済成長にとってはマイナスかもしれないが、そうすることで景気後退の落ち込みを抑制することができる=長期的な成長率(潜在成長率)の下落という対価を払って短期的な成長(景気の落ち込みの抑制)を買っている=将来所得からの借り入れ。ここでの議論はポーゼンによる総需要刺激策としての無駄な政府プロジェクトの擁護論であって、一時的な景気後退に対処するために無駄な政府プロジェクトを実施すること=景気循環の過程を通じた成長率の安定化を可能にする方法、と捉えた上で、有益なプロジェクトに政府予算を費やしていたならば達成されていたであろう潜在成長率の上昇分を成長率の安定化という便益を得るための対価(=逸失利益)と理解しているということになるのであろう。
*5:訳者注;つまりは銀行のバランスシート問題が解決されない限りは、総需要のこれ以上の落ち込みを抑制するために財政出動をいつまでも継続しなければならない、ということなんだろう
*6:訳者注;銀行のバランスシート問題の解決にさっさと取り掛かれってことでしょうね
*7:訳者注;この部分訳すの難しい。原文は“monetary policy did not remove deflation quickly in any easy way.” 特に in any easy wayの部分の訳。これは「色々な緩和策をとったにもかかわらず」という意味なのか「思ったほど容易なかたちでは」という意味なのかそれともまた別の意味なのか。本文中ではこの部分は抜かして訳出してある。
*9:訳者注;インフレ率は××%になる
*10:ゼロ金利解除が将来の金融政策のスタンスに関する不確実性を高めたと主張してる点がどういうことを意味しているのか気にかかるところだけども。証言全文に細かく目を通したわけじゃないんでもしかしたら証言中で何かしら触れられてる可能性もあるけども。
*11:デフレ退治は思ったよりも難しいとは言ってるけども、そこから「金融政策はデフレ退治に無効だ」なんて主張を引き出すのは飛躍も甚だ過ぎるだろう