非効率なナッシュ均衡に陥った日本経済


藪下史郎著『非対称情報の経済学』(光文社新書、2002年)を再読。


非対称情報の経済学―スティグリッツと新しい経済学 (光文社新書)

非対称情報の経済学―スティグリッツと新しい経済学 (光文社新書)


情報の非対称性が引き起こす問題―逆選択やモラハザード―について、著者が大学院生時代に師事したスティグリッツの経歴を交えつつ、実にわかりやすく丁寧な説明がなされている。新味が無いといえばそういえなくもないけれども(経済学になじみの薄い一般ビジネスマンや大学一年生を対象とした「通勤電車の中でも手軽に読める」入門書、と位置付けてるんだから仕方ないか)興味深い指摘も散見される。一つだけ引用。

アダム・スミス以来経済学では、経済発展のためには分業が重要な役割を果たしているということを指摘してきた。・・・交換経済のためには分業が行われ、各人が専門分野に特化することによって、生産性を高めた・・・しかし特化は、自分の専門分野だけの生産に従事することであるため、その分野についてはより詳しく知ることができるが、それ以外の分野については情報を得る機会が少なくなる。多くの人々は、専門または自らが生産過程に従事している分野についは多くの情報を持つが、それ以外の分野については情報を持たなくなる。すなわち、経済発展に伴って必然的に非対称情報が生まれるのである。(p82)


最終章の7章では低迷する日本のマクロ経済の問題が取り上げられている。本書の中で私が最も関心を引かれた個所である。「規制緩和構造改革などは長期的に経済効率を高める上で必要不可欠であったとしても、失業率のような短期的問題の解決には有効でな(い)」、「貨幣金融部門から実物経済への影響だけでなく、実物部門での企業経営が悪化することが、銀行に不良債権を生み出し金融システムを不安定化するという、逆方向への関連が重要であることが分かる」、「不安定な金融システムと実物部門でのデフレや失業問題は、総需要不足だけでなく、さまざまな市場機能の不完全性が複雑に絡み合って生じているため、・・・単に財政政策か金融政策か、またマクロ政策かミクロ政策か、という二者択一的な問題ではなく、それらを総合的かつ有機的に用いる必要がある」。

「総合的かつ有機的」な政策対応が求められているにもかかわらず、民間部門と政策当局を含む日本経済全体は非効率的なナッシュ均衡状態にあるという。財務省は累積する赤字に、日銀は将来のインフレに、それぞれ懸念を抱き単独での景気刺激策に乗り出すことに躊躇する。自己資本の減少を防ごうとする結果、銀行は不況下での不良債権処理には乗り気でない(新たな不良債権を生むだけ)。不確実な将来に備え、企業部門は積極的な投資を控え、家計部門は消費よりも貯蓄を優先する。他の経済主体の行動を所与とする限り、危険回避的な行動をとり続けることが各人にとっては最適な反応となる。結果として経済全体としては非効率な状態はいつまでも続き、不況から抜け出す兆しはなかなか見えてこない。

「日本経済が陥っている非効率なナッシュ均衡的現状から脱却し、素早い景気回復を実現するためには、積極的かつ総合的経済政策を迅速に実行する力強い政治力が不可欠である」(p233)んだけども、莫大な政治的エネルギーは郵政民営化に注がれ続けているわけで・・・。

出口の抜け方


7月12、13日に開催された金融政策決定会合での決定は、前回と同様当座預金残高目標を30〜35兆円に維持するとともに、俗に言う「なお書き修正」として、金融機関の「資金需要が極めて弱いと判断される場合には」残高目標の下限割れも容認する姿勢を引き継いだ形となっている。果たして下限割れ容認は量的緩和政策解除への地ならしを意味するのだろうか。量的緩和の出口は間近なのか。「出口政策」について冷静に、現実的なものとして考えるべき時のようである(総裁定例記者会見において記者の「金融経済月報の中で「供給オペに対する札割れが続く」という表現があるが、札割れが頻発すると量的緩和政策の目標を維持できないはずである。今回このように表現された理由について、何がしかの下ごしらえの意味があるのか。総裁の言葉で言えば「積み残しがある」かのようなイメージを受けるが如何か。」との質問に「私どもとしては、5月20日金融政策決定会合で「なお書き」を修正して、流動性需要が著しく減退しているような場合に一時的な目標値の下限割れがあるということを決定したわけである。現にその方針のもとに金融調節を行ってきているわけであるから、その後の市場状況を述べる場合に、札割れ現象にまったく触れないでいくことはあまり正直ではないだろうと思う。記者の皆様や私どものように札割れ現象という言葉を既に何回も耳にしている人達と違って、金融経済月報は一般の方々にも読んで頂くわけであるので、札割れという現象が一度も表現されたことがないというのは、むしろおかしいということである。それ以上の深読みは明らかに深読みであり、それ以上の意味は一切ない。」と答えており、この総裁の言葉をそのまま信じれば「出口」はまだまだ先のようではあるが・・・)。


量的緩和政策の解除条件として日銀は3つの条件を挙げている。

1.直近公表の消費者物価指数の前年比上昇率が、単月でゼロ%以上となるだけでなく、基調的な動きとしてゼロ%以上であると判断できること

2.消費者物価指数の前年比上昇率が、先行き再びマイナスとなると見込まれないこと(政策委員の多くが消費者物価指数の前年比上昇率がゼロ%を超える見通しを有していること)

3.量的緩和政策を継続することが適当であると判断されるような経済・物価情勢が見受けられないこと


この3条件が満たされた場合、量的緩和政策は出口を迎えることになる。量的緩和という異常事態から金利コールレート)を操作目標とする正常な、また伝統的な金融調節へ。終着点ははっきりしている。しかしながら、その道程ははっきりしない。当座預金残高目標を徐々に減額していくのか、それとも一気にゼロ金利解除に踏み込むのか。果たしてどれだけのスピードで出口を駆け抜けていくのだろうか。

安達誠司著『デフレは終わるのか』を参照して量的緩和解除の具体的プロセスを考えてみよう。


デフレは終わるのか

デフレは終わるのか


安達氏は植田和男・日銀審議委員(当時)の2004年5月26日の日経CNBCの番組上での発言から出口政策のプロセスを3段階にまとめている(p77)。

1.量的緩和の解除

2.量的緩和と通常の金利政策との過渡期の政策運営

3.平時の金融政策運営


2の過渡期においてゼロ金利を維持するか(量的緩和→ゼロ金利→通常の金利政策)、それともゼロ金利を解除してコールレートの変動(上昇)を認めるか(量的緩和→通常の金利政策)。前者はスロースピードの出口政策であり、後者はハイスピードの出口政策といえよう。間にゼロ金利を挟むということは、当座預金残高を徐々に減額していくことを意味しており(所要準備を上回る超過準備を容認)、一気に通常の金利政策に回帰することは超過準備を一挙に放出する(当座預金残高を所要準備の水準まで圧縮する)ことを意味している(積み進捗率の調整によりコールレートを操作するためには支払準備は所要準備の近辺にある必要がある。大幅な超過準備が存在する状況ではコールレートは低位で安定したままのはずである)。ハイスピードの出口政策を実施するためには、日銀は大規模の売りオペにうってでるか準備預金率を大幅に引き上げなければならない(超過準備は30兆円近くに上る)。安達氏は実行可能性の観点からハイスピードの出口政策に対し否定的な結論を下している(「金利政策への回帰」を出口と位置付けるならば、金利政策への回帰のための必要条件である「余剰準備の解消」が大きなネックとなるため、実現は実質的にはほぼ不可能であると結論付けられる。」(p103))。


そもそも現在は「出口政策」に乗り出すべき時なのだろうか。安達氏は、テイラー・ルールやマッカラム・ルールによる現状の金融政策の評価、1936〜37年にアメリカで実施された「出口政策」の歴史を踏まえて次のように述べる(アメリカの前例から4つの教訓を引き出しています)。

当時のアメリカにおける一連の政策パッケージは、2003年5月以降の大規模な円売りドル買い介入とそれに付随した量的緩和の拡大というわが国のデフレ圧力解消局面に酷似していると考えられる。このことはリフレ派が想定しなかった「レジーム転換なしのリフレ政策」でもいったんは、デフレ圧力の解消が可能であることを示唆している。だが、「レジーム転換なしのリフレ政策」はどうしても「早すぎる出口政策発動」の誘惑を断ち切ることが困難なようである。この点については、現在の日本も同様のケースである可能性が高く、「早すぎる出口政策」が今後のリスクとなる可能性は棄て切れない。(p92)


デフレを解消することへの明確なコミットメントが無い状況(経済主体のデフレ期待転換への働きかけが無い状況)で自然治癒を果たした1937年のアメリカ経済は「出口政策」に乗り出して失敗を犯した。私が言えることは、出口の先に広がる景色ばかりに気をとられて道中石に躓かないよう注意してください、ということだけである。

耐久財のディレンマ


部屋の整理をしていると森嶋通夫著『思想としての近代経済学』を発見。何気なしに読む。


思想としての近代経済学 (岩波新書)

思想としての近代経済学 (岩波新書)


経済学入門ないしは経済学史の最初の講義で紹介されて(佐和隆光著『経済学とは何だろうか』も同時に紹介されていたと思う)、純粋無垢で元気溌剌な若きHicksian(当時はヒックスなんてもちろん知らない。森嶋通夫と聞いてもピンともこなかった)は、講義終了後迷うことなく本屋に駆け込んだものだ(中古で買うなんて汚らわしい発想は持ち合わせておりませんでした。きっちり620円出して購入)。佐和本も一緒に出てきたということはその時同時に購入したのだろう。夢と希望に心躍らせ、やる気に満ち満ちた18の春。遠い昔の話です。


著者がこの本の中で取り上げるテーマは大きく分けて二つ。「ビジョンの充実―経済学と社会学の総合―」(第Ⅱ部の表題)と「反セイ法則」(「耐久財のディレンマ」)。当時は第Ⅱ部を熱心に何度も何度も読み返したようだ。あちらこちらに赤線が引いてある。一方で第Ⅰ部・第Ⅲ部は読んだ形跡が見つからない。新品同様の良質の状態である。


時代は流れてどうやら視野狭隘な人間に落ちぶれてしまったらしい。というのも、赤いページ(赤線まみれだから)は足早に、白いページは行きつ戻りつゆったりとしたペースで読み進んでいったからである。

これまでに概観した経済諸理論を総合すれば、次のような近代経済学の資本主義観が得られる。まず第一に、シュンペーターが力説したように資本主義は安定的でない。資本主義の発展コースは、「企業者」の創意と「銀行家」の勇断に・・・依存して、旧軌道から不安定的に離れ去り、飛躍的な大発展を遂げる。第二にそれはまた、ヴィクセルが見たように貨幣面で極めて不安定である。大きい革新が枯渇すれば、収益逓減の法則により、資本の生産力(したがって正常利子率)が低下するから、貨幣利子率は高位に取り残されて、下方への累積過程が生じる。これを是正すべく貨幣利子率を下げれば、下げ過ぎて上方向への転進が生じ、物価騰貴が生じる。・・・更にその上シュンペーター、ヒックス、ヴィクセルは、いずれもワルラスが残した「耐久財のディレンマ」を直視していない。彼らはワルラス同様、完全雇用均衡が成立しうると考えるが、そのためには非現実的な「セイ法則」を仮定するか、利潤率均等化の動きを無視しなければならぬ(p95〜96)。


資本主義はその成功のゆえに没落する、とかのシュンペーターは述べている。没落するかどうかはひとまず置いておくが、資本の蓄積が進み(耐久財の存在感が増し)経済的に豊かになるにつれて、当該経済は構造的な不均衡(貯蓄>投資)を抱えこみ不況と失業から逃れることがますます困難なことになってゆく。耐久財のディレンマによって資本財市場での価格調整が機能しなくなり「反セイ法則」(有効需要の原理)が現実のものとなるからである。

耐久財(テレビや冷蔵庫(消費財)、機械設備(資本財)等数回ないし数年にわたって繰り返し使用可能な財)には2つの市場が存在する。著者が例としてあげているように自動車には売買のための市場とレンタルのための市場がある。自動車がP円であり、レンタル料金がq円であるとき、手元にP円を保有している人は自動車を購入して運転を楽しむことができる(運転によるサービスをレンタルしているとも言える)と同時にレンタル市場を利用して収益を稼ぐことも可能である。P円で購入した自動車を一年間貸し出すと(減価償却率をδとすると)q−δPだけの収入を得ることができ、その時の収益(利潤)率は(q−δP)/Pとなる。レンタル業に乗り出さずとも収益を稼ぐことは可能だから(P円を銀行に預けたり証券に投資すればよい)、このレンタルによる収益率はその他の資産投資から得られる収益率と等しくなければならない(等しくなるよう調整が働く)。利子率をiとし、その他資産の収益率をこれで代表させると耐久財についての利潤率均等の条件 i=(q−δP)/P が得られる。

自動車の価格Pとそのレンタル料金qはそれぞれの市場で需給を均衡させる水準に決定される。ここで問題となるのは各市場で決定された均衡価格(P*、q*)が耐久財についての利潤率均等の条件をも同時に満たしうるかどうかということである。レンタル市場で需給を均衡させるレンタル料金がq*に決定され、また利子率が与えられると利潤率均等の条件から自動車価格P’が求められる。はたしてP’は自動車(売買)市場を均衡させる水準(P’=P*)でありうるだろうか。極めて偶然的な場合を除いてP’では自動車売買市場での需給は均衡しないであろう(価格Pが需給調整機能を放棄する)。つまりは利潤率均等の条件を前提する限り、レンタル市場・自動車売買市場が同時に均衡するのは困難なことなのである(「耐久財のディレンマ」)(ガレリャーニ(P.Garegnani)が同様の指摘をしているということをどこかで読んだ記憶があるんだが、はてさてどこだったかしら。ワルラスによる一般均衡の枠組みの下(正常利潤を含んだ費用方程式)においては諸資本財間の利潤率の均等を保証するメカニズムは存在しない、みたいな感じだったかしら )。

耐久資本財(機械設備)市場においてP’で需給が均衡しない場合(上で論じてきたことは耐久財一般にも妥当する;Pは新品の機械価格、qは機械の生産用役の価格(生産部門と機械保管部門の間に機械の生産用役のレンタル市場があると擬制的に考える)、p44参照)、資本財に売れ残り(需要<供給)や品不足(需要>供給)が発生する(需要の大きさが供給の水準を決定する「反セイ法則」)。「株式会社が発達するにつれ、大衆資本が動員された結果、大多数の資本家は企業経営とは何の関係もない人となってしま」い「資本家と企業者は独立にな」(p151)ると投資決定(資本財需要)と貯蓄(資本財供給)決定も独立になされるようになり、(第一次世界大戦後のように)「生産力は高水準だが停滞し、技術が発展する可能性は乏しく、したがって技術革新の余地はほとんどな」(p151)く「経済が発展して投資機会が少なくなると、資本財を供給しても、需要されるとは限らなくなった」(p231)。資本財供給は過少な資本財需要にあわせて抑制され、資本財生産産業の労働需要量や資本用役への需要量は減少、労働市場や資本用役市場には過剰供給(失業や遊休設備・予期せぬ在庫増)が発生する。労働市場で価格調整(実質賃金の下落)が行われる結果として過剰雇用は一掃されるだろう。しかしながら新たに失業した人々は「賃金下落により労働意志をなくして自発的に市場から退場した自発的失業者のようにも見えるが、それはもとをただせば、資本財に対する有効需要が少ないことにより、資本財を数量調整した結果生じた失業である。ケインズはこのような有効需要の不足に基づく失業は、一見自発的に見えても、彼のいう失業、すなわち非自発的失業として取り扱う」(p232)。


森嶋教授によれば「耐久財のディレンマ」が「反セイ法則」(過少な投資需要の大きさに生産(貯蓄)が圧縮される)を通じて大量失業の脅威を経済に及ぼすようになるのは経済発展の結果であるという。

資本蓄積が進行し、経済発展がなし遂げられるにつれ、投資機会の多くは実現済みのものとなり、少ししか投資機会が残されていなくなる。その結果、技術発展が急速に進行する例外的な時代を除いては、一般に投資需要は、余剰生産物(実物貯蓄)より遥かに小さくなる。「供給(貯蓄)はそれ自身に対する需要(投資)をつくる」という意味のセイ法則は満たされなくなる。すなわち資本蓄積、経済発展の必然的結果として、経済はセイ法則の時代から反セイ法則の時代に転換する。(p240)

反セイ法則が現実的に妥当し始めるのは「耐久財の持つ比重が、近代社会で大きくなったことと、生産力が増大したために耐久財について容易に生産過剰が起こりうるようになったから」(p47)であり、「異論もありえようが、私自身は、おそらくは第一次世界大戦前から、ほぼ(戦後には、全く)そういう時代になってしま」(p232)い、「戦間期および第二次大戦後を通じて、現実がセイ法則から遠ざかるにつれ、完全雇用均衡も実現不可能になったのである」(p233)。森嶋教授のこのような見方からは世界恐慌も反セイ法則(構造的な投資需要不足=デフレ期待による名目期待キャッシュフローの低迷が原因ではなく、資本蓄積による収益逓減の結果としての名目期待キャッシュフローの低迷が原因)が現実世界で猛威を振るった一例ということになる(p152〜153参照)。


経済発展の結果として資本の蓄積が進み豊かになると投資需要は低迷せざるを得ない。投資需要の不足は構造的なものである(根本的な打開策は投資ブームをもたらすようなイノベーションの実現。公共投資をするなり金利を低位に維持するなりして技術革新が実現するのをひたすら待つしかない)。現在の日本においてゼロ金利にもかかわらず一向に景気が回復しないのも投資需要が構造的に不足してるからなんでしょうかね? 日本が豊かすぎるのが原因なんでしょうか? イノベーションの実現を期待するしかないんでしょうか? 日銀さん、どう思います?

最後の『冬ソナ』論

田中秀臣著「最後の『冬ソナ』論」(太田出版、2005年)

御多分に洩れず(?)、「冬ソナ」をはじめとする韓国ドラマ(一つも見てないかもしれない。申し訳ないですm()m)は未見でして、物語に秘められた暗示や隠喩を読み解くその見事な手綱さばきを評価する正当な資格があろうはずがなく、また映像を頭に思い浮かべつつ議論の展開を堪能するまたとない楽しみ(=「なるほど、あのシーンにはそういう意味が込められていたのか」とはたと膝を打つチャンス)もみすみす逃してしまう格好となってしまいました(例外的に一箇所だけ、「「脂ぎった顔で、ウェーハッハッハと嗤う」エコノミストという肩書きをもつ人物」(p10)の映像は脳裏に鮮明に浮かんできましたが)。本書を一読する前に少しだけでも「冬ソナ」を見ておくべきだったな〜、というのが唯一の心残りであります。え? そんな話はどうでもいい? そうですか。そうですよね。

自己の欲望・満足(性欲)の充足を目的とした(渡辺淳一的な)利己的な愛だけが愛の唯一の形ではなく、自己の犠牲(不利益)も厭わずに(=仕事や家族を犠牲にしてでも)他人を絶対的に信じ切る(他者への共感に根ざす)利他的な愛もまたれっきとした愛の形である。また「ひとりの人間のなかには多様な動機が同時に共存していてもなにも困らない・・・」のであり、「利己的な愛と利他的な愛がひとりの人間のなかになんの矛盾もなく両立することができる」(p60)。

利己的な愛を体現するサンヒョク・ミニョンには利己的な愛で、利他的な愛を体現するチュンサンには利他的な愛で、それぞれ対峙するユジンの行動の二面性(まるで「しっぺ返し戦略」のようだ。特にチュンサン→ミニョン→チュンサン(利他的→利己的→利他的)への対応の変遷(チュンサンが記憶を喪失しミニョンとなるや(相手が利己的な愛を選択すると)利己的な愛で応じ(応戦し?)、ミニョンが記憶を回復しチュンサンが蘇るや(相手が利他的な愛を選択すると)利他的な愛で応じる(報いる?)。次の言葉は示唆的である。「愛情ゲームのなかで彼女が主に採用する戦略は、無償の純愛という戦略なのである」(p65))や「冬ソナ」ブームを支えた背景―「配偶者選択モジュール」(=利己的な愛の原動力)が規定する中高年女性の構造的な恋愛デフレと利他的な愛に共感する「利他的選択モジュール」(=利他的な愛の原動力)の働きによって支えられた冬ソナブーム―を(ヨン様の性格設定もですが)丹念に観察・分析することによって著者が「冬ソナ」から導き出したメッセージである。

著者が「冬ソナ」から引き出したこのメッセージは、実のところ「愛を節約する」経済学のあり方とデフレ不況下にある現在の日本経済の両者に対する一つの警鐘となっている。「効率」という基準(自己にとっての便益>自己にとっての費用、ならば効率的)に基づいて行為を評価する傾向にある「愛を節約する」経済学(=行為の背後に利己的な動機(選好体系)のみを想定)では、利他的な動機(「利他的選択モジュール」)から発する行為により人々の間に構築される「信頼」関係(「自分の利益ではなく、無私の貢献をしているものに対して社会や周囲の人間はそれなりの評価を与える。この人は信用できる、と」。(p136))の重要性になかなか気づくことができず、そのため利他的な愛を体現したものとしての「日本的雇用システム」が果たす役割を十全には理解することはできない。雇用の継続を保証する「終身雇用制」や名目賃金の一定の上昇を約束する「年功序列賃金制度」は、「愛を節約する」経済学の立場からすれば経済合理性にかける非効率的な制度に見えることだろう(=賃下げや解雇が必要な状況において厄介な足かせとなるだけであり、また雇用の流動化(柔軟で流動的な資源の移転)を束縛するものでしかない)。しかしながら、経営状態が苦しい状況にあっても安易な首切りや賃下げ(=短期的な利益を追求する)を回避し、従業員の現状維持に尽力する経営者の利他的な愛の戦略は、従業員の経営者・会社に対する「信頼」や忠誠を引き出し、時に「会社人間」とも揶揄される無私の(滅私の)、言い換えれば利他的な行為を誘発する源泉となる。会社に対する「信頼」が存在するもとでは、従業員は関係依存型の(あるいは組織特殊的な)人的投資に積極的に乗り出すインセンティブを有し、結果として企業の生産性は向上していく(効率性にもプラスに働く)ことだろう。短期的な利益を追求する経営者の判断(=首切り、賃下げ(あるいは成果主義的賃金制度の導入);効率至上の利己的な行為)は、従業員との(長期的な)信頼関係を崩壊させ、従業員のモラルややる気はいやおうなく低下してゆくことになるかもしれない。人間は利己的な原理だけではなく利他的な原理によっても突き動かされているのであり、社会が(経済が)円滑に進行してゆくためには配偶者選択モジュールに加えて利他的選択モジュールが活躍しうる場を確保する必要があるわけである。

私が『冬ソナ』からあえて経済学に対する有意な意義を見出すとすれば・・・まさに利己的な原理と利他的な原理が補い合うということ、そして同時に後者のより相対的な強調にこそ求めなければならないだろう。(p136)

デフレないしは不況は経営者に短期志向ないしは利己的になることを強いることによって(経営体力が弱まることで解雇や賃下げに乗り出さざるを得なくなる)信頼関係の崩壊に手を貸すことになる(「終身雇用制」や「年功序列賃金」はマクロ経済が安定している結果として成立しうるものである)。デフレが長引けば長引くほど、経営者と従業員間の「信頼」の源泉たる利他的選択モジュールの活躍余地は狭まり、配偶者選択モジュールが利他的選択モジュールを淘汰する可能性がいやましに高まることになる。デフレ不況のもとで進行する利己的な原理の利他的な原理への侵食を食いとどめるためにも(両者のアンバランスを是正するためにも)、一刻も早いデフレからの脱却が必要である。

(追記)経済は効率と信頼・公正ないしは利己的/利他的な原理の共存によってヨリ円滑に機能するという議論は実はヒックスも主張している点である。労使間の信頼関係が醸成されるためには労働者が公平(fair)に遇されていると感じることが必要であり、公平な賃金体系が維持される結果として賃金は粘着的になるとヒックスは述べる。労働者の生産性に応じて賃金を頻繁に改定することは、確立された公平な賃金体系を揺るがすことにより労働者に不公平感を抱かせ生産効率を引き下げることにつながる。「いかなる価格体系も(賃金体系とまったく同様に鉄道運賃体系も)、経済効率性の基準とともに公平性の基準をも充たさなければならない」(『ケインズ経済学の危機』(ヒックス本は絶版ばかりだね〜(悲 )、p109)。

注記しておかなければならないことは、ヒックスは公平性の基準を充たすために価格が粘着的(固定的)になることの弊害をも十分に認識しているということである。長くなるが引用。

もし、価格(および賃金)がもっと安定していれば、万事がうまくいくはずだ、したがって、固定価格市場には、たとえかぎられた程度にもせよ安定性にそれが役立つのだから、積極的メリットがあるのだ、と。・・・しかし、それには、その反面、嘆かわしいデメリットがあることをも、私は十分に心得ている。私が主張しているのは、私がこれまでに論じてきた諸問題を心にとどめておくことが経済学者のなすべきことの一部分である、ということ―価格は配分機能だけでなく社会的機能をももっているのだということを経済学者は常に意識すべきだ、非常にはっきりと意識すべきだ、ということである。しかし、価格は、たしかに配分機能をももっているのであり、その配分機能を明らかにしてきたことが、経済学の主要な成果のうちの一つなのである。私は、われわれはその方向で学んできたことのすべてを捨て去るべきだ、などということを、いささかも述べているわけではない。われわれは、そのことをもしっかりと心にとどめなければならないのである。たしかにわれわれは、価格機構の自由な使用によって最適効率が達成されうるような世界は現実からはほど遠いものであることを、よく知らなければならない。しかし、だからといって、そのことは、経済効率を改善する―時おり言われるように、準最適化する―実際的方法を求めてわれわれがたえず努力したりすべきではない、という理由にはならないのである。このことは、先のこととまったく同様に、われわれの義務の一部分なのである。(『ケインズ経済学の危機』、p117〜118)

効率追求も公平の追求同様に重要だということです。

構造改革のミソ

数年前の某缶コーヒーCMだったと思うが、その中でダウンタウン松本人志が何気なく語っていた言葉が今も記憶に残っている(松ちゃん自身が考えたかは知らないが)。       

構造改革のミソはなぁ、「構造を改革する」ことにあるのであって、「改革を構造する」ことではないんだな〜。

正確な口調まではさすがに忘れたけれども、内容に関しては大きくは違っていないと思う。

第一に問われるべきであり、また忘れてならないのは何のための改革か、ということである。構造改革の目的が資源の効率的な配分を促進し、経済の潜在的な(長期的な)成長力を高めることであるとすると、改革に着手する以上は資源配分の歪みを生んでいる「構造」を特定し、改革の結果としてその資源配分の歪みが解消されることを示さなければならない。“これまで誰も成し遂げられなかったことをやってのけたのだ”、“強い抵抗を跳ね返して苦心の末に改革を実現させたのだ”、とあたかも改革することそのものに意味があるとでも言わんばかりに、「改革したという事実」に焦点を当てその事実を誇示するというのは本末転倒の事態である。改革はあくまで手段なのであり、改革自体が自己目的化してしまってはならない。誇示すべきは改革の成果なのである。「改革を構造する」という意味での「構造改革」は本来的な意味での構造改革とは言えない。                           

さて郵政民営化である。郵政3事業のうちここでは郵貯について取り上げたい。といっても私が語ることができるのはごくわずか、いや何もないと言ってもよいかもしれない。“韓流好き田中VS高橋ヴェーダー卿”というリフレ派内部での激論に何をか付け加えようとしたところで、私の能力から鑑みるに無理がある。ただ、両者ともに現時点において(財投改革後の)郵貯の存在が歪んだ資金配分をもたらしてはいないという点では一致しているようだ。また、政府介入を許すような市場の失敗が存在するわけでもないみたい(市場の失敗がないのであれば政府は手を引きなさいということになるんだろうが、現状でも特段問題は見出せない。害もなければ益もない。単純に必要ないんじゃないだろうか)。存在しても存在していなくてもどちらでもかまわない存在。なら廃止してしまえ、というのは短絡なのだろうか。

一体郵政民営化の目的は何なのだろうか? 目的なしの改革は「改革を構造する」ことなのではないのか。新規の事業に乗り出さなければ赤字に転落してしまうような事業体をなぜ民営化してまで残す必要があるんだろうか。もしかしたら民業圧迫郵政民営化の目的なのか。金融業界における競争を活発にして・・・・という話なのかしら? ということは競争制限的な規制は依然健在なのであろうか。財政赤字の縮小・小さな政府の実現なんて話もあるようだけど、果たして郵政民営化がその手段として適当なんだろうか。疑問は尽きない。郵政民営化の目的が見えてこない。一体目的は何なんだ。

「情けは人の為ならず」や「流れに掉さす」という諺がえてして逆の意味に取り違えられることがあるように、「創造的破壊」という言葉もシュンペーター自身の意図とは正反対の意味を含ませて語られることがある。シュンペーター自身は、新結合による革新者の新規参入(創造)がそれまでの経済構造のあり方(均衡下にある市場、循環)を変容させる(破壊)という意味で「創造的破壊」―創造の過程において旧来の伝統なりが破壊されていく―という言葉を使っていたはずである。まず創造ありきである。しかしながら、破壊の中から創造が生まれるという意味で「創造的破壊」が―破壊したあとに創造が生まれる―持ち出されることがある。旧弊を破壊せん、さすれば何か生まれよう。バクーニンもどきの言説に他ならない、とかの西部翁は語っている

「改革を構造する」構造改革には、破壊ありきの「創造的破壊」の精神と一脈通じるところがあるのかもしれない。現状を変えれば何とかなる、改革/破壊がその後よい結果を生む(に違いない)。希望的観測の吐露にしかすぎない、無責任な考えだと感じるんだが。郵政民営化に関しては某首相の自己満足のような気もするけど。

需要は有限か


西部邁氏が先導した「出エジプト」(塩沢由典教授による命名)の動きに共鳴し反経済学の道をまっしぐらに突き進んでいたあの頃(そう昔のことではないけれども)、佐伯啓思著『「欲望」と資本主義』の以下の一節を読んで目から鱗が落ちる思いをしたものである。

ふつう経済学では、人間の欲望はあらかじめ無限にあり、これに対して生産資源は有限なのだから、生産物はこの無限の欲望のもとでつねに絶対的に不足していると考えられている。だから経済学の問題はあくまで「稀少性」にあるとされる。どんなに生産しすぎても人間の絶対の欲望に対しては生産過剰ということはないのであって、問題はあくまで「稀少」な資源をどのように使い、かぎられた生産物をどのように分配するかにある。・・・人間の欲望は潜在的には無限かもしれないが、そのもっとも基本的なものは生存に関わるものだろう。すると、これは決して無限なわけではない。・・・ひとつの「種」が社会を構成して存続するための基本条件・・・という観点からすると、人間は明らかに生存に関わる以上のものを生み出しているのである。・・・一般的にあらゆる人間社会は基本的生存水準以上の生産力をもっているのである。その意味では生産は常に「過剰」なのだ。だからこう考えれば、人間社会の経済問題は「稀少」にあるのではなく、むしろ「過剰」にあるというべきではなかろうか。(p75〜76)


「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

 


経済学の教科書を見ると消費の限界効用は逓減すると書いてある。豊かになり消費水準が高まるにつれていつかは欲しいものがなくなってしまうのではないか。(マクロとしての)消費の限界効用もやがて飽和してしまい、生産が需要を上回ることが常態となってしまう(=構造的な過剰生産・超過供給が定着する)のではないか。コンビニやデパートで新品同様の弁当や雑貨が廃棄される様を指摘して生産過剰の例証とする向きもある*1。「豊かな国で生産は過剰になる」という言明は我々の「常識」に訴える力を持っており、そのため欲しいものがないから(=構造的な消費需要の不足のため)現在の日本は長引く不況から抜け出すことができないのである(=現在の不況は豊かさの裏返しである)、という議論に多くの人々が説得力を感じてしまうのかもしれない。しかしながら、「豊かになれば欲しいものがなくなる」という一見すると説得的な議論に基づいて、「消費水準が低いことは欲しいものがないことのあらわれである」、と結論付けるのは早計であって(高貯蓄=欲しいものがない、と単純に等式で語ることはできない)、欲しいものがあっても消費が低迷することはありえる。この点の詳しい議論は「何を消費するか」と「どれだけ消費するか」とを区別すべきだと説く岩田規久男著『デフレの経済学』第7章を参照して欲しいが、価格下落の期待(=デフレ期待)もまた消費低迷の一因となりうる(=価格下落の期待は消費を将来に延期する誘因となる)ということは注記しておきたいところである。


デフレの経済学

デフレの経済学


急速な技術革新や東欧の市場参入、新興工業国からの輸出の急増により資本主義経済は(一国経済にとどまらず世界全体で見て)過剰供給状態に陥ったのだ、との主張も構造的な過剰供給論として人気あるものであるが、クルーグマンはこの主張に「グローバル・グラット・ドクトリン」という名を冠して批判を行っており、その中で「グローバル・グラット・ドクトリン」の背後には「豊かになれば欲しいものがなくなる」との常識に訴える議論が控えていることを指摘している(『資本主義経済の幻想』を参照。該当する文章はウェブ上でも読めます。Is Capitalism too productive?kmori58さん情報。どうもありがとうございますm()m)。


資本主義経済の幻想―コモンセンスとしての経済学

資本主義経済の幻想―コモンセンスとしての経済学


以下、「豊かになれば欲しいものがなくなる」論への批判の一環としてKrugmanによる「グローバル・グラット・ドクトリン」批判を簡単に見ていくことにしよう。


Krugmanはグローバル・グラット・ドクトリンが成立するための前提条件として3点挙げている(p37)。

1.グローバルな生産能力は例外的なまでの速さ、おそらくは前例のないほどの高い伸び率で増大しつづけている

2.先進国の需要は、潜在供給力の増大に追いついていくことができない

3.新興経済圏の成長は、グローバルに見て需要面よりもむしろ供給面でより大きく貢献するであろう


1については逸話や印象論―特定分野での過剰生産の事実や「ムーアの法則」etc―によって形作られた思いつきに過ぎず、統計数字を用いてここ数年のうちにおいて例外的といえるほどの生産力の伸びが見出せないことを指摘、2については「所得が上がるにつれて消費者は、必要な物をすべて購入してしまって満足するようになる、つまり所得が増えるにつれて支出を増やすことには躊躇するようになる、という観念」(p42)の産物であり、これまた統計数字からアメリカの消費支出が増大する所得に歩調をあわせて上昇していることを指摘、「「恒常的な」所得の上昇が見られる場合、それは経済成長に伴うものだが、彼らの支出は所得の上昇に比例して増加する」(p43〜44)と結論付ける(=「豊かになれば欲しいものがなくなる」論に対するデータに基づいた反駁)。3については新興市場諸国は対外債務を返済するため消費を抑えて輸出主導の成長戦略をとっており、低賃金に基づく価格競争力を武器に貿易黒字を計上しているはずという思いつきにほかならず、またまた統計数字を用いて正規(regular?)の経済学者が予測する通り*2実際には新興市場国の多くは貿易赤字を抱えており、賃金も生産性の上昇に伴うかたちで上昇していることを明らかにする。


統計数字を見る限り、グローバル・グラット・ドクトリンが成り立つための前提条件は一つも満たされていない。グローバル・グラット論者は「実在しない問題が実在すると思い込」んでいるのである。

グローバル・グラット・ドクトリンを説く者たちは、退治すべき怪物どもがあたりを徘徊しているというのに(他に解決すべき重大な経済問題があるにも関わらずという意味:引用者)、ドン・キホーテのように風車に挑みかかろうとしているのである(p57)。


生産力過剰に関する懸念は1930年代の大恐慌期にも存在したという(「大恐慌期における雇用不足を1920年代に広汎に導入された大量生産技術に結びつけようとしたのは、ごく当然のことであった」、p34)。「常識」「実感」に訴える考え、あるいは「既得観念」のしぶとさをまざまざと知らされる思いである(フランスでジョスパン政権期に「ワークシェアリング」の議論がグローバル・グラット・ドクトリンと関連付けられて台頭してきた、という指摘も興味深い)。

*1:コンビニでアルバイトをした経験がある人ならば、まだ食することが可能な弁当を惜しげもなく大量に廃棄する際にもったいないと感じたことがあるはずだ。「なんて贅沢な、アフリカの貧しい人々は日々の生活にも困っているというのに」、と強い憤りを覚える正義感溢れる人もいるかもしれない。しかし、コンビニという社会の片隅での経験・観察を一国経済レベルにまで一般化して、「豊かな国では生産は需要を超過する」と結論付けるのはあまりにも飛躍しすぎである。商品に売れ残りが発生する(あるいは廃棄される)理由はその値段が高すぎるためか、あるいはそもそもその商品に対する需要が存在しないためである。大量に廃棄される商品は次回からは入荷が抑えられ(あるいは値下げされ)、その一方ですぐに売り切れとなりしばしば在庫不足に見舞われるような売れ筋の人気商品が存在する。コンビニという狭い世界の中においても、生産過剰の商品もあれば需要過剰な商品も存在するわけである。POSシステムにお金をかけて投資するのも、消費者の動向を素早く見極め、商品間の需給の誤差を調整するためである。営利を目的とする以上、いつまでも大量廃棄されるような(需要のない)商品を店頭に残しておくはずがない。部分的な生産過剰から全体的な生産過剰を類推するのは大きな過ちである。

*2:新興市場諸国の生産性上昇は所得の上昇をもたらす。発展途上の国の人々は、貧しさのため現在の消費水準に満足しているはずもなく、所得増加は供給の増加に劣らぬほどの需要増加につながるはずだ。また、国内貯蓄を上回るほどの投資機会を国内に有する新興市場国の場合(S<I)、支出は収入を上回り資本収支の黒字、翻って貿易赤字を計上するはずである(ISバランス論)。また、当初の価格競争力の優位も生産性上昇に伴う賃金上昇によって軽減されるはずである。(p44〜45参照)

“rise and rise and rise”/“fall and fall and fall”


持ち上げるだけ持ち上げといてからその後容赦なく叩き落す。というよりも、なじるために誉めそやすと考えた方が適当か。マスコミないしはワイドショーの論法だけども、表題とはあまり、いや全く関係ない。取り上げるのは昨日出てきたヴィクセルです。


ネットをうろちょろしてたらヴィクセルの論文を見つけた。一世紀近く前の論文をネット上でタダで読めるとは思わなんだ。


●Knut Wicksell(1907), “The Influence of the Rate of Interest on Prices”(Economic Journal XVII, pp.213-220)

If, other things remaining the same, the leading banks of the world were to lower their rate of interest, say 1 per cent below its ordinary level, and keep it so for some years, then the prices of all commodities would rise and rise and rise without any limit whatever; on the contrary, if the leading banks were to raise their rate of interest, say 1 per cent above its normal level, and keep it so for some years, then all prices would fall and fall and fall without any limit except Zero.

市場利子率(銀行の貸付利子率)が自然利子率(the profit on capital、資本の限界生産性)を下回り続けると物価はとどまることなく上昇し(rise and rise and rise:累積的なインフレ)、上回り続けると物価はとどまることなく(0にはならないが)下落する(fall and fall and fall:累積的なデフレ)。そのメカニズムについてはヒックス先生に聞いてみよう(『経済学の思考法』3章)。

引き下げられた(現実の)利子率の最初の効果は、(投入物としての)資本財に対する需要の増加であろう。(資本財が反応するとしても)直ちに反応しない一部の資本財供給が確かにあろうから、一部の資本財価格は少なくとも確実に上昇するだろう。この価格の上昇は予期しない収益をもたらし、その一部はやがて支出されるであろう。したがって消費財需要もまた、すぐにではないがやがて増加するであろう。投入物の価格は上昇するが、産出物の価格が上昇しない期間があり、この期間には、投入物価格の相対的上昇によって投資の収益率が減少するであろう。したがってここでも真の自然利子率を下回る擬似的な自然利子率があり、一時的に現実の利子率と均衡するようになるであろう。しかし時間が経つにつれて、消費財需要は増加するに違いないし、その価格も上昇するに違いない。したがって、他の解釈と同じように、擬似的な自然利子率は真の自然利子率に戻り、「累積的な」拡張が継続するであろう。(p86〜87)

資本財価格の上昇が先行するため(資本財価格の上昇により収益が圧迫され、その影響を考慮に入れた「擬似」の自然利子率と市場利子率の差は(自然利子率−市場利子率)よりも小さい、時には一致する場合もあり)、一時的な市場利子率の低下は累積的な価格上昇につながらない。消費財価格が上昇し始めた時にも依然として市場利子率が低位な水準に維持されていれば、(消費財(産出物)価格の上昇により)「擬似」の自然利子率は真の自然利子率の水準まで上昇、その後資本財・消費財価格は二つの利子率(自然/市場)の差額から生じる利潤分配の増加による需要増を反映して「累積的」に上昇し続ける。


自然利子率と市場利子率の乖離はそのまま放置され続けるとは限らない。

When interest is low in proportion to the existing rate of profit, and if, as I take it, the prices thereby rise, then, of course, trade will require more sovereigns and bank-notes, and therefore the sums lent will not all come back to the bank, but part of them will remain in the boxes and purses of the public; in consequence, the bank reserves will melt away while the amount of their liabilities very likely has increased, which will force them to raise their rate of interest.

銀行貨幣が唯一の支払手段である純粋信用経済(where all payments were made by transference in the bank-books)では、銀行が貸し付けた資金はどこかの銀行に預金として還流してくる(あるいは貸付先の銀行口座に貸付金額を記入)。物価が上昇している時には、その分必要な貨幣も増加するから銀行貸付も預金も増加。振り込み依頼の金額が増大する結果として支払準備(当座預金)は目減りし(変動が大きくなり)、増大する預金に対して必要となる支払準備が増大する。借入需要を抑えるため(支払準備の目減りを防ぐため)に銀行は貸付利子率を高め、これ以上の貸付・預金増加を抑制しようとする。やがて、高まる市場利子率は自然利子率の水準に一致する。


誰とは言わないが是非とも心して聞いていただきたい言葉。

it turns into a positive support of our theory, as soon as we fix our eyes on the relativity of the conception of interest on money, its necessary connection with profit on capital. The rate of interest is never high or low in itself, but only in relation to the profit which people can make with the money in their hands, and this, of course, varies. In good times, when trade is brisk, the rate of profit is high, and, what is of great consequence, is generally expected to remain high; in periods of depression it is low, and expected to remain low. The rate of interest on money follows, no doubt, the same course, but not at once, not of itself; it is, as it were, dragged after the rate of profit by the movement of prices and the consequent changes in the state of bank reserve, caused by the difference between the two rates. ・・・In one word, the interest on money is, in reality, very often low when it seems to be high, and high when it seems to be low .

市場利子率が低位にあるときには物価が上昇し、高い時には物価は下落する。ヴィクセルの議論ではそうなるように考えられるが、実際に統計を見てみると物価の上昇時に利子率は上昇しており、物価が下落している時には利子率も下落している。統計によるヴィクセルへの反論に対するヴィクセルの再反論が上の言葉である。(名目)金利の水準だけを見て、その水準が高いか低いかを述べ立てることはできない。あくまで自然利子率との対比の上で市場利子率が高いか低いかを判断すべきである。景気が良い時=物価上昇時には自然利子率が高いためその分市場利子率も高くなるのであり、景気が悪い時=物価下落時には自然利子率が低くなるため市場利子率も低くなる。最後の言葉は記憶しておきたい。「市場利子率が高く見える時には実際には(自然利子率との対比でみれば)割安なのであり、市場利子率が低く見えるときには割高なのである。」

FTPL


●土居丈朗“「物価水準の財政理論」の真意(pdf)”(土居丈朗のサイトより)。


FTPL(Fiscal Theory of the Price Level;物価水準の財政理論)は、「物価変動は貨幣的な現象ではなく財政政策による現象である」ことを主張するものである。

物価水準の財政理論によると、物価変動は財政政策、なかんずく国債残高の多寡によって起こり、通貨供給量は影響を与えないとみる。さらに言えば、この理論が成り立てば、国債発行額自体が物価変動に影響を与えるのであって、国債の日銀引受けや日銀買いオペ(に伴う通貨増発)は物価変動には何も影響を与えない、とも主張する。


政府の予算制約式は、

名目税収+名目公債発行額=名目公債費+名目一般歳出    
→名目公債費−名目公債発行額=物価水準×実質PB(税収マイナス一般歳出)

と表現され、この予算制約式を満たすように物価水準が決定される。

予算制約式が満たされない=政府による債務不履行と同値であるから、財政の破綻を避けようとするならば上記の予算制約式は満たされねばならない。実質表示のプライマリーバランスの赤字額が名目国債発行額を上回る時には物価水準が下落する(デフレ)ことによって、また反対に後者が前者を上回る時には物価水準が上昇する(インフレ)ことによって予算制約式の左辺と右辺の等式が維持されることになる。

実質一般歳出の増加や実質税収の減少が名目公債発行額の増加に比してより大きい状況が続く限りデフレは続くことになる。つまり、デフレが続くか否かは、政府の財政運営次第である。


デフレは、追加的に発行した国債の利払い償還の時期が訪れ、予算制約式の左辺にある名目公債費が増加することによって解消される(実質PBや名目国債発行額が公債の追加発行前後で変化しない時)。「物価水準の財政理論が成り立つとき、追加的に公債を発行する時点で物価水準は低下し、その利払償還の時点で物価水準は上昇する」。

是非とも注意せねばならないことは、物価水準の財政理論=物価変動に対する金融政策の無効性を立証する議論、と捉えることは極端な(あるいは歪曲された)単純化であるということである。名目国債発行額のみによって物価水準が決定されるという議論の背後には金融政策運営に関するある仮定が存在する。「日本銀行の金融政策は、政府の財政政策に対して従属的で、名目金利をターゲットにして通貨供給量を調節している」「名目利子率をターゲットにして金融政策を実施している」という仮定である。中央銀行通貨供給量を、あるいはマネタリベース(当座預金残高)を操作目標として金融政策を運営しているならば、結論は若干変ってくる。

名目公債残高を増やすこととマネタリー・ベースを増やすこととはほぼ同義であることがわかる。さらに言えば、マネタリー・ベースは中央銀行の負債であるから、広義の政府債務であるとみなすことができるから、そうみなしても名目公債残高を増やすこととマネタリー・ベースを増やすこととはほぼ同義であるといえる。このことから、財政理論に基づいて考えても、マネタリー・ベースは物価水準に影響を与えるということができる。


物価水準の財政理論というネーミングは誤解を招きかねない点がある。政府発行の国債は償還期限のある負債であり、日銀の発行する日本銀行券は償還期限のない負債である。政府と中央銀行を一体として捉えれば(統合政府)、政府負債の発行額が物価水準を決定しているわけであるから(「名目公債残高を増やすこととマネタリー・ベースを増やすことはほぼ同義であるといえる」)、物価水準の財政理論(FTPL)というよりは物価水準の負債理論(Debt Theory of the Price Level;DTPL)と呼ぶほうが適当ではなかろうか。


最後に土居先生からの貴重なお言葉。

財政理論の見方を、とかく物価変動について金融政策が無力であるかのように悪用する向きがあるが、それは論理的にも誤りである。・・・物価水準の財政理論は、物価変動について金融政策が無力であることではなく、物価水準の変動は財政金融政策のスタンスが影響を与えることを示唆している。量的緩和政策を積極的に行わないことによって、デフレ対策を主に財政政策だけに依存する風潮がある今日において、物価水準の財政理論をその論拠としないように、国民が見守らなければならない。

現代中国と1970年代の日本


●Barry Eichengreen and Mariko Hatase,“Can a Rapidly-Growing Export-Oriented Economy Smoothly Exit an Exchange Rate Peg?  Lessons for China from Japan's High-Growth Era”(日本銀行、IMES Discussion Paper Series 2005年8月)


1970年代における日本の為替制度改革の経験−1ドル=360円でのドルへのペッグからの脱却(1971年8月;アメリカによる金=ドル兌換停止(ブレトンウッズ体制の終焉))→1ドル=308円で再びドルにペッグ(1971年12月;スミソニアン協定)→変動相場制に移行(1973年)−を考察することにより、中国の人民元改革の将来の指針を得ることを目的とする。当時(1950年代〜1970年代)の日本経済と近年の中国経済の異同を綿密に比較した上で、「export-oriented, fast-growing economies in the early stages of catch-up that exited voluntarily from a peg.」という歴史上稀な(現在の中国経済と同様の性格を有する)ケースである1970年代の日本における為替制度改革の体験を現在の中国のhistorical precedentと見なして人民元改革の今後の教訓を引き出す(1ドル360円から308円への平価切上げはアメリカからの圧力によって強いられたものではなく日本自身の自発的な判断(exited voluntarily from a peg)であったとしており、その根拠としてニクソンによる金=ドル兌換停止の宣言後二週間にわたって1ドル360円を維持するために当局(日銀、大蔵省)が為替介入を行っていた点を挙げている)。以下、簡単に内容の紹介。


1ドル=360円という固定レートは1949年(ドッジライン)から1971年まで約20年間にわたって維持され続けた。当初はその水準はovervalueされている(日本経済の実力からすると為替水準はもう少し切り下げるべきである)と考えられており、経済が成長するにつれて経常収支が赤字を計上したため(政府のドル準備の流出を防ぐため、あるいは1ドル360円を維持するために)金融引締めにより景気の抑制に乗り出さざるを得なかったが(「国際収支の天井」(“balance of payments ceiling.”))、1950年代の後半から1960年代にかけて貿易財部門の生産性の向上(政府主導の合理化計画(Government-led rationalization of the metals, machinery and chemicals sectors)も貢献)が進展した結果として1ドル=360円というレートは徐々にundervalueになり、大規模な貿易黒字が計上されるようになっていく(「国際収支の天井」にぶつかり経済の成長を金融引締めで阻害する必要はなくなる)。外国からの貿易黒字削減の圧力をかわすために(capital inflow によるマクロ経済へのインフレ圧力を抑制するために)、輸入の増加を目的として為替規制や貿易障壁の緩和・撤廃に乗り出すものの(undervalueな)平価の切上げという選択に踏み出すまでには至らず(1ドル=360円という固定レートは“immutable condition”と見なされていた)、1971年いわゆる「ニクソンショック」を迎えることになる。

ニクソン大統領による金=ドル兌換停止の宣言後、政府当局はしばらくの間(1971年8月27日まで)1ドル=360円のレートで為替介入を行うものの、やがては為替水準の増価を容認し1ドル=308円に到達したところで再びドルにペッグする(16.9%の平価切り上げ)。平価切上げがマクロ経済に及ばすdeflationary effectを回避するために財政金融両面から景気の下支えのための政策出動がなされ、景気への悪影響は軽微なもの(1972年第1四半期の輸出は0.1%の減少(前年の同期比)にとどまり、第4四半期には15.7%の増加を記録した;1972年の第1四半期の実質GDP成長率は年率換算で10%を超える勢い)にとどまった(ドルとのペッグに固執しフロート制(ダーティーフロート)への移行が遅れたがために1973〜74年のインフレの加速を招いた、とする小宮隆太郎氏らの研究も紹介)。1973年になるとスミソニアン協定の決定も維持することが困難となり、円は1ドル=265円まで増価、当局の為替介入の結果としてレートは264円から266円の間に維持されることになる(1973年9月まで)。1971年、1973年の円の増価時において政府当局は為替介入を実施し(「Japan’s float was heavily managed」)、急激な為替変動を防止、このことは現在の中国に対して示唆を与えるものである。

外為規制が存在し(資本取引の自由化が達成されていない)、インターバンクでの為替先物市場が未発達であった1970年代の日本においても柔軟な為替レートへの移行は実現可能であったことから(戦後日本の外為規制・為替先物市場の発展の様子(詳細はp20〜23を参照)を考察した結果として得た結論)、中国人民元の自由な変動、市場によるレート決定を現実のものとするためには資本取引の自由化の実現と厚みがあり流動的な為替先物市場の発展が不可欠である(資本取引の制限が緩和・撤廃され、上海におけるインターバンクの為替先物市場がさらに発達を見せるまではこれ以上の人民元改革に乗り出すべきではない)、という議論に疑問を提示する。政府当局による急激な為替変動の回避(機動的な為替介入)が実施されるならば、という重要な但し書きがつくが(急激な為替変動が政府の介入によって回避されるならば、資本取引の規制が存在しようが先物市場が未成熟だろうがヨリ柔軟な為替制度への移行は実現可能)。


結論:1970年代の日本−資本取引規制が存在し為替先物市場が未発達である、rapidly-growing, export-oriented economy−は、政府当局による機動的な為替介入に支えられて、成功裡にヨリ柔軟な為替制度へ移行した。大幅な平価切上げがマクロ経済にそれほど重大な悪影響を及ぼさなかったのは、財政金融政策による需要維持政策と世界経済の景気拡張という偶然(計量経済学的な手法に基づく観察の結果、世界経済が好景気局面にあったことで日本経済に対して与えたプラス効果が大きなものであったことが判明)に助けられた面があり、運命を偶然に委ねるつもりがないならば適宜為替介入を実施することによって国内経済へのインパクトを減殺し、急激な実質為替レートの増価を避ける必要がある(ドルペッグからの脱却後に即座に完全な変動為替制度に移行するとマクロ経済に対して大きなネガティブ効果を与及ぼしてしまう可能性が大)。

今般の中国の通貨バスケット制への移行(漸進的な為替制度改革)は、1970年代日本の経験から引き出しうる教訓に合致したものである(自発的にドルペッグから脱した点(諸外国からは更なる平価切上げの圧力を受けていたがそれを排した)も同じである)。輸出企業のマージン率の低さ、大規模な不良債権を抱える銀行の脆弱な基盤、GDPに占める輸出の割合の高さなど現代中国の特徴を考えると、1970年代の日本以上に急激な実質為替レートの増価を避ける必要がある(実質為替レートの上昇は企業利潤を圧縮し設備投資の低迷を招く。1970年代の日本では実質為替レートの上昇は設備投資に(輸出と比べて)ヨリ大きなマイナスの影響を与えた)。今回の通貨バスケット制移行後の措置としては、為替介入を実施しつつ変動幅を徐々に拡大させるような漸進的な手法が望ましい(完全な変動相場制への移行は急激な実質為替レートの増価を招く恐れがある)。1970年代の日本の経験から得られる教訓としてかように結論付けられるのではなかろうか。